弱い壁『日本語は天才である』88-89頁

「品がいいといえば、ぼくの二〇倍は品のいい友人がいます。二〇歳ほど年下で、ぼくの二〇倍は頭がよくて、ぼくの二〇倍は礼儀正しい。この友人に、罵りの名句があります。あるとき、奥方と言い合いになったそうです。舌戦は接戦にならず、奥方の圧勝。そして奥方は颯爽と外出なさった。残された友人は、部屋の壁を蹴っ飛ばしました。すると、壁にぽかっと穴があいたというのです。
 友人は、自ら蹴り破った壁を叱りとばしました。

  ――なんて弱い壁なんだ!

なんて的確で、なんて上品で、なんて滑稽な罵倒表現なんだ!と、ぼくは感嘆しました。人に向けられたのではなく、壁に八つ当たりしているのが、なんとも痛快です。しかも実に独創的なセリフです。夏目漱石も芥川龍之介も大江健三郎さんもシェイクスピアもジェイムズ・ジョイスも思いつかなかったせりふです。一九八九年、ベルリンの壁崩壊に加わった二百万人の市民の誰一人として、そういう発語をしなかったはずです。

  ――なんて弱い壁なんだ!

 ぼくはこれを聞いて以来、なにか腹立たしいことがあると、いつもこのせりふを思い浮かべることにしている。たちまち頬がゆるんで、心穏やかになります。」

柳瀬尚紀『日本語は天才である』新潮社 2007 88-89頁

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