残された言葉『敗北の二〇世紀』83ー88頁/90頁  

「母語が「敵国語」として立ち現れてしまう者にとって、その言葉は絶えざる「選択」とともにあるほかない。詩作という活動に、母語を措いて選択の余地がどれほどあるのだろうか。ツェランは、この問いをやりすごすことはできない。その言葉の「積極的な働き」を駆使した苦闘は、「選択の必然性」を呼ぶほかない詩の形をとって表出されるだろう。それは不可避的に、自らの詩作についての考察が詩の主題とならざるをえない。詩論としての詩、あるいは経験としての詩として、それは辛うじて成立するものとなる。そこでは、なにが「狂ってしまった」のかという問いは、どこまでも「言葉」それ自体を貫きつづけるだろう。そのように「残された言葉」とは、どういう言葉でありうるのか。
 ツェランにおいて、「助かったのは口ばかり、沈みゆく人たちよ、私たちの声も聞いてくれ」というその口は、「口まであふれる沈黙」に充たされているのであり、「禁治産の宣告を受けた唇、語れ、なにごとが起こったかを、たえず、きみからほど遠からぬところで」と、禁治産の宣告をされ、いわば口を奪われた唇のに収斂していくものとしてあった。
 切れぎれの身体感覚として表出される言葉、禁治産者の唇のもとに残された言葉、それがツェランにとって、吃音から沈黙へと傾斜する「自己の存在の傾斜角のもとで」語ることとしての、そして「自分自身の縁において自己主張するもの」としての「詩」の言葉であった。その吃音と沈黙は、この時代そのものが帯びる「傾斜角」であり、詩人はその「縁」にあって小さく語ろうとするのである。たえず「道の途中」にあって、現われ出るものに語りかけるその「絶望的な対話」のうちに、詩はあるかなきかの「場所」を探り求める。
 ツェランにおいて「この対話の空間の中で、はじめて、語りかけられるものが形づくられる」といわれるとしても、また「現われ」に眼差しが向けられるとしても、それはアーレント的な「世界」を構成するものではありえなかった。そこでの「語り」は禁治産の宣告を受けた「無」によって貫かれているからである。人びとのあいだに介在するのは、分離し、結合するテーブルではなく、無(Nichts)の隔たりであり忘却なのである。たとえば1963年に発表された詩篇『誰でもないものの薔薇』から数箇所を引いてみる。

  
  そしてときおり、無が、わたしたちの間に立ったときにだけ、ぼくらは、すっかりうちとけたのだ。

  なんというこの手の、目覚め!なんという世界の、裂開、わたしたちの、ただなかをつらぬいて!

  それ、自体が、わたしたちを、失った、それ、自体が、わたしたちを、忘れてしまった、それ、自体が、わたしたちを―― ――

 無の介在は「それ、自体」が私たちを喪失し忘却した、という転倒に帰着する。ここに開かれるのは「世界の裂開」と呼ぶほかない、私たちを貫き通す深々とした空虚であり、二つのダッシュが示す沈黙であるだろう。たとえ「世界はなくなってしまった、ぼくはおまえを担わなければならない」と書きとめられるとしても、それは世界喪失の物語よりも、無に支配された「誰でもないもの(Niemand)」の世界あるいは非世界に傾斜していく。
 したがって、その「注視者」のもとに形姿を表わす「世界」は、ツェランにあっては反転したかたちでのみ「現われる」だろう。それは「暗闇から暗闇へ」の目覚めにおいて現れる。暗闇のなかを来る眼。ツェランの読者はすぐに気づくように、「眼」は彼の詩作を貫く重要な語にちがいない。しかしそれは、喪失を見てとる「眼のなかの傷痕」としてあるのであり、従って「眼で獲ちとられた暗黒」をもたらす「眼の裂開」において世界は捕捉されている。それ故に注視ではなく「盲いる」ことが、ここでは世界に向かう「眼差し」のあり方になる。「世界にたいして盲いた眼、死の、峡谷の中に――ぼくは行く、心に固いしこりを抱いて」。眼だけではない。それは「盲いた手」や「おそろしい啞の沈黙」をも抱いて行くのである。
 このような苛烈さとともにある詩作活動において、ツェランにとって「残された言葉」が問題となる。いや、このような発動条件を背負うからこそ「言葉」だけが残される、というべきだろう。ツェランの「発言」に耳を傾けよう。

  もろもろの喪失のただなかで、ただ「言葉」だけが、手に届くもの、身近なもの、失われていないものとして残りました。/それ、言葉だけが、失われていないものとして残りました。そうです、すべての出来事にもかかわらず。しかしその言葉にしても、みずからのあてどなさの中を、おそるべき沈黙の中を、死をもたらす弁舌の千もの闇の中を来なければなりませんでした。言葉はこれらをくぐり抜けて来、しかも、起こったことに対しては一言も発することができませんでした、――しかし言葉はこれらの出来事の中を抜けて行ったのです。抜けて行き、ふたたび明るい所に出ることができました――すべての出来事に「ゆたかにされて」。

 (・・・中略・・・)生起したことに対して一言も発することができず、しかし、それをくぐり抜けてきた言葉。「出来事の中を抜けて行った」とは、言葉のどういう事態を指すのだろうか。少なくともツェランが、「「すべてのできごと」に「ゆたかにされて」」と語りかけるとき、この途絶点にある言葉は、出来事についての概念の物語を拒絶している。しかしまた、そうであればこそ、いっそう「対話の空間」が命がけで希求されていくのである。言葉は傷だらけになり、意味を狩りだしながら生きていくほかない。その「苦痛の目覚め」が辛うじて詩的なるものを支えている。
 恐るべき沈黙と死をもたらす弁舌との中を来る言葉は、物語と意味の死を孕んでいるだろう。ツェランが書きつけた忘れがたい詩句、「一つの言葉――一つの屍」。ツェランに「残された」言葉は、物語を語るにはあまりに負荷が大きかった。そこには無数の引き裂きが集積していた。二〇世紀という時代が「身の毛もよだつばかりの空の下」で幾重にも刻みつけた傷痕であった。」

市村弘正「残された言葉」『敗北の二〇世紀』ちくま文庫 2007 83ー88頁/90頁
 

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