根源的な他者性『ラカンはこう読め!』79-82頁

 しかし、「人間の欲望は〈他者〉の欲望である」という公式にはもうひとつの意味がある。主体は、〈他者〉を欲望するものとして、つまり満たしがたい欲望の場所として、捉えるかぎりにおいて、欲望できる。あたかも彼あるいは彼女から不透明な欲望が発せられているかのように。他者は謎に満ちた欲望を私に向けるだけでなく、私は自分が本当は何を欲望しているかを知らないという事実、すなわち私自身の欲望の謎を、私に突きつける。ラカンはここではフロイトに従っているが、そのラカンにとって、他の人間の底知れぬ次元――他の人間の底知れぬ深さ、まったくの理解不能性――が最初にその完全な表現を見出したのは、汝の隣人を汝自身のように愛せという命令をもったユダヤ教においてである。フロイトにとってもラカンにとっても、この命令はひじょうに多くの問題を含んだ命令である。次のような事実を曖昧にしてしまうからだ。その事実とは、私の鏡像としての隣人、私に似ている人、私が共感できる人の裏には、根源的な他者性の、つまり私がその人については何も知らないという、計り知れぬ深淵が口を開けているということである。
(・・・中略・・・)
 ここで、隣人を倫理的に飼い慣らしてしまうという誘惑に負けてはならない。たとえば、エマニュエル・レヴィナスはその誘惑に負けて、隣人とは倫理的責任の呼びかけを発してくる深遠な点だと考えた。レヴィナスが曖昧にしているのは、隣人は怪物みたいなものだということである。この怪物性ゆえに、ラカンは隣人に〈物 das Ding〉という用語をあてはめた。フロイトはこの語を、耐えがたいほど強烈で不可解なわれわれの欲望の究極的な対象を指す語として用いた。われわれはこの語の中に、ホラー小説から連想されるありとあらゆるものを聞き取らなくてはならない。隣人とは、人間のおだやかな顔のすべてから潜在的に垣間見える(邪悪な)〈物〉である。スティーブン・キングの『シャイニング』を思い出してみよう。作家のなりそこないであるおとなしい父親が、しだいに殺人鬼に変身していき、邪悪なにたにた笑いを浮かべて、自分の家族を皆殺しにしようとする。したがって、ユダヤ教が、人間と人間の関係を規定する神の〈掟〉の宗教でもあることは不思議ではない。この〈掟〉は非人間的な〈物〉として隣人の出現と密接に相関している。つまり、〈掟〉の究極の機能は、われわれが隣人をう忘れないようにし、隣人への親近感を保たせることではなく、反対に、隣人を適当な距離に遠ざけ、すぐ隣に住む怪物に対して身を守らせることである。
ジジェク『ラカンはこう読め!』79-82頁

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