文化地図『標識としての記録』1-8頁

文化地図ということを考える。考えなければならなくなっている、と言ったほうがよい。そのような生きる手立てを緊急に必要とする状況が、私たちをとりまいている。この「地図」はつきつめれば、私たちが生きる世界をどういうものとして思い描くか、描きなおすのかという問題である。いや、世界という表現はやめておこう。それを考えなおすためのに「文化」という言葉を持ちだしてきたのだから。しかし、この文化という概念がすでに、簡単には使いにくいものになりつつある。考えるための梃子として用いることが難しくなっている。このこと自体が、実は文化をとりあげる根幹に横たわる問題なのである。
 文化という概念を特権的に使うのは止めにしよう、という意見がある。文化の多元性という観念が普遍的価値を下落させ、排他的な心性を誘発している、という見解がある。そして、諸々の災厄をひきおこす経済的活動の根底に、元兇あるいは障壁としての文化が横たわっている、という主張がある。文化はけっして肯定的な価値を担う自明の概念ではない、という議論はすでに馴染みぶかいものになっているといってよいだろう。
 そこまでの文化についての考え方には、一つの了解が前提として置かれているように思える。すなわち、特権的といい排他的といい元兇といい、それぞれの言説における文化は、たとえ否定的作用という意味にせよ、いわば独立した作用力を持つものであることは疑われていない。疑われていないどころか、そこでは文化はいわば大文字の概念として、目ざわりなほどに存在していてとされる。議論の対象として確かな存在と考えられている。
 しかし、そうだろうか。かりに文化が特権的にまた排他的に作用しているとすれば、それは、むしろ小文字の文化が息づいていないことの証ではないか。それこそが問題なのではないか。小文字の文化とは何か。それぞれの生活様式に根ざす、生きてゆく上で欠くことのできない具体的な要件である。かつてG・オーウェルは、自分の理想とする社会を「川がきれいな社会」と表現したが、たとえばその「きれいな川」である。このような「川」について語ることは、けっして個別のあれこれの川を語ることに尽きるのではなく、また環境といった抽象的記号を指すのでもない。そこが暮らしの場として望ましいことを示す、それは標識のようなものだ。そういう標識のもとに、私たちの生活は形を与えられ方向づけられながら営まれる筈のものなのである。このような標識がなくなったとしたら、どうするか。「地図」を描きなおさなければならないだろう。
 このような地図の必要性は、すでにいろいろな形で言われている。たとえば二年ほど前の新聞記事の対談の中でも、批評や理論の役割は「有用な地図」を作ることだという相手の批評家の発言に応じて、ある小説家が語っていた。「実際に地図として役立ちながら、精神の見取り図であるようなものが、今必要だと僕も思います」と。そこには、それぞれの仕方で、この見通しの悪い標識なき事態が捉えられているのだろう。
 かつて私自身、晩年のバルトークに思いを馳せながら、彼が手にしていた「地図」について次のように書いていたことがある。それはいまでも大切な地図の一枚だと考えている。

  人為的な国境線を超える「花粉」と「歌」の分布圏であるような在りうべき空間と、そこでの異質なものの往来と出逢い。――すなわち、越境性と異種交配。これがバルトークが、北アメリカの森の静寂のなかで、そしてニューヨークの喧騒のなかで、その不在に耐えながら、しかし決して手放すことのなかった「文化」地図であり、それに描いた地形であった。眼前の政治的な地図の下に、バルトークは何世紀にもわたって吹きわたる風のような自然の生成過程と大いなる時間の堆積とが形づくる「隠された地図」に目を凝らす、あるいは耳を澄ますのである。そうして現代から救い出した「記憶」を在るべき地図に描きこんだのである。

 バルトークにおける民謡やオーウェルにおける川のような標識と、それにもとづく「精神の見取り図」を、私たちの社会はどのようなかたちで持ちうるのだろうか。
 地図を作成するためには、地形を示す記号、そして場所を特定する記号がなければならない。私たちに必要な「地図」にとってその記号すなわち標識は、どのような性質をもつだろうか。少なくとも二つの性質をもたなければならないだろ。それは第一に勢力圏の分布を表示する記号とは対立する。その記号がそのまま文化地図のものとなってはならないのだ。勢力地図がすべてを併合し肩代わりしている事態こそが問題なのである。政治経済の地図がいわば大国の興亡の影のもとに作られるとすれば、文化のそれは価値の序列と次元を異にし、政治的な力関係に拮抗するものでなければならない。もう一つの価値の所在を具体的に示すことが必要なのだ。
 それは第二に、生活ないし、生存の感覚を表示するものでなければなるまい。私たちが生きる社会と文化が標識を見失っているとすれば、それは何よりも私たちの生存感覚の希薄さそのものに現れている。そして社会的行為が帯びる手ごたえなき破壊性にそれが露出している。この事態はおそらく、知的枠組の更新や理論的な見取り図の提示のみによって打破することは難しいだろう。必要なのは、私たちの内で生きつづける具体的な記号なのである。
 私たちがそれを手にして生きてゆくための地図、それに書きこまれるべき標識の手掛りを、どこに求めればよいのだろうか。いくつかの手立てがある筈だ。私自身そのように考えて、ささやかながら本を読み、生活を振りかえる営みをつづけてきた。そのような手掛りの一つに、ドキュメンタリー映画というものがあるのではないだろうか、いや、実際に私自身の内に生きつづける記号をそれが形づくっているのではないか、と考えはじめたのは最近のことである。
 そのことを私に自覚させたのは、1991年5月に上映された『狭山事件』という映画だった。正確にいえば、そこでの映像経験だった。このドキュメンタリー映画は、何よりも現場を記録するという基本作業のレベルで悪戦苦闘している、と私には見えた。つまり、そこに把握されるべき「現場」とは何なのか、そのための方法としての「記録」はどのような水準で成り立つのか、という問いがフィルムを貫いているように思われた。題名が示す映画の主題とメッセージを受けとりながらも、私が見ようとしていたのは、この映画における「現在」の表現のされ方であり、語られ方であった。あるいはその困難さだった。
市村弘正『標識としての記録』日本エディタースクール出版部 1992年 1-8頁

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