運命を自覚した犠牲者『小さなものの諸形態』平凡社ライブラリー 74頁

時代の形式としての悲劇。それが私たちの生きる条件であるとすれば、歴史のなかの人間の在り方が繰りかえし問われねばならないだろう。かつてハンナ・アーレントが指摘したように、たとえば小説ジャンルの隆盛とともにあるような一九世紀の「市民的な運命概念」は、偶然が下す判決から逃れて、それを理解したり苦悩したりする人間の能力に立ち戻ろうとする試みであった。そこには「人間はたとえそれ以上の何者でもありえないとしても、少なくとも運命を自覚した犠牲者にはなれるはずだ」という信念が息づいていた。しかし二〇世紀の時代経験は、そのような人間の理解する苦悩する能力を押し潰し、その無力さを露わにするに十分な悲惨を見せつけた。ここでは、歴史はほとんど恣意的で抗いがたい災厄として立ち現われ、いわれなき不幸として現前しつづけた。それは歴史内存在としての人間の「自覚」や「能力」によって何とかなるものとは到底思われないような形式を身にまとっていた。すなわち悲劇の形式だ。
市村弘正『小さなものの諸形態』平凡社ライブラリー 74頁

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?