考えるという動詞を生きる『小さなものの諸形態』212-213頁

「私たちの言葉は疲れている、と思う。過労死というような言葉に驚かないほど、私たち自身が疲れているのだから、むろん言葉が疲れていないはずはない。問題は、その疲労の中身だ。それは言葉に意味がぎゅうぎゅう詰め込まれていることによるのではない。そういう言葉の使われ方を見ることは本当に少なくなった。そうではなく、私たちのまわりの言葉は、物事に出会うまでの距離、そして意味に到達するまでの距離に耐えがたさを感じているのである。こらえ性がなくなったと言ってもいい、そういう言葉がおびる疲労なのである。
 これは虚ろな疲れだ。この空疎さは何よりも、意味を手許へたぐりよせたいという欲求をもたらすだろう。その付きあいをやりすごしたいという近道衝動を刺戟するだろう。こうして迂回を遠ざける早わかりと、意味の書こみ済みの言葉の収集が、その疲労がもとめる処方となる。これは言葉を噛む力を弱くする調剤である。
 複雑さは複雑なままに。これが対抗処方だ。物事がいわば塊としてやって来るとき、それを腑分けすることが考えることなのではない。抱え込んだ経験の意味を咀嚼することと、頭のなかに整理整頓することとは違う。複雑さのために費やされる言葉のわかりにくさは、考えることを遮断してしまうことがないという意味で、けっして手に負えない難解さではない。反対に、近道言葉は、事態に向かいあうことを阻む力として作用するだろう。
 言葉のうちに蔵いこまれている物事への触覚。すなわち、埋もれているものの深さ、隠されてあるものの奥行き、沈黙するものの拡がり、見えていないものの動き、忘れられているものの遠さ。そういう痕跡や気配へ向かう言葉のベクトルが考えるということだろう。それは、たとえば哲学的というような形容詞を誘発する名詞形の「思考」を手に入れることではなく、「考える」という動詞を生きることにほかならない。」

市村弘正『小さなものの諸形態』212-213頁

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