天才『ぼくが猫語をはなせるわけ』中公文庫 100-106頁

 或る日ぼくは、レコードの名曲全集中の一巻で、ラフマニノフにリヒャルト・シュトラウスにシェーンベルクにファリャという四人の作曲家の作品を二枚のレコードに収めた分の感想文を求められて、悪戦苦闘した。そもそも音楽について言葉で語ることはどこか空しいわけであって、そこでかえって、こういうややこしい「四題噺」をデッチあげるといったおかしな難題を持つ方が、「闘志」をかきたてる要素もあるらしいのだが、それにしてもこの四人では大変だ。
 ただ、考えているうちに、いろいろなことを思い出した。そのいずれもが、あの頭と手足ばかり大きくてなんとなくカッコのつかない、といった感じの十代後半の、なんとも面映ゆい思いでなのはどういうわけだろう。

 まずファリャだが、ぼくが中学生の時、『カーネギー・ホール』という映画がきて、そのなかでアルトゥール・ルービンシュタインがファリャの『火祭りの踊り』を弾く場面があった。これがまことに絢爛豪華、どう絢爛豪華かときかれたら「百聞は一見に如かず」の典型とでも答える他ない種類の強烈な演奏であった。
 すると、たちまちぼくのまわりのピアノをたしなむ連中が、いっせいにこの『火祭りの踊り』を弾き始めた。カーネギー・ホールでのホロヴィッツの演奏会の翌日、ジュリアード音楽院では、その夜のホロヴィッツのレパートリィがいっせいに響き出すという。そして特に、たとえばアンコールで弾かれた『トロイメライ』なんてのに全員が挑戦してみて、溜息とともに引き退ることになるという。似たようなことが恐らく世界中で絶えず行われているにちがいない。
 ところで――ホロヴィッツ対ジュリアードと並べて話すこと自体面映ゆいのだが、二十数年前の日本における、この『火祭りの踊り』の突然の流行も、あっという間に終わってしまった(とぼくは信じる)。要するにどうしようもなかったにちがいない。譜面自体は、特にルービンシュタインの絢爛たる演奏に接したあとでは、信じがたいほど単純なものなのだが、ホロヴィッツの『トロイメライ』同様、それがかえっていけない。この曲の演奏において、ルービンシュタインは両腕を交互にあげて舞踏のリズムをとるところがあるのだが、いくら真似して高く腕をあげてドタドタやってもどうなるものでもない。
 聞くところによると、ルービンシュタインは今でも演奏会でアンコールなどによくこの曲を弾くという。とすると、その翌日早速楽譜を探してきて、両腕を高くあげてドタドタ真似してみる若いモンが、今でも沢山いるのだろうか。そう思うと、それだけでもうぼくはなんとも恥ずかしくてゾクゾクしてしまう。というのも、実は他ならぬこのぼく自身も、その両腕を高くあげてドタドタやってみたオッチョコチョイの一人だったというわけなのだから。

 高校時代に、この種の気恥ずかしい「芸術派」が集まっていた組織として、「日比谷高校新校歌制定委員会」というものものしい名称の委員会があった。その頃の日比谷高校の校歌は、一中時代から続く「雲井に高き九重の、千代田の宮を仰ぎつつ、学びの庭におり立ちて、いざや磨かん我が心」といった大時代なもので誰も歌わなかったし、代わりに「芙蓉の雄姿仰ぎつつ、ちまたの塵を離れたる、ここ山王の聖天地、こもるわれらの意気高し」などといった行進曲風の寄贈歌があったが、これもせいぜい運動会にみんなで口ごもりながらなんとか辻褄を合わせる、というようなものだった。そんなに嫌なら、生徒諸君の手で斬新なものを心ゆくまで作ったらどうか、という学校側の申し入れに応じて始まったのがこの「新校歌制定委員会」だったわけだ。
 ところが、ここに集まってきた委員会たちの顔ぶれがすさまじかった。なにしろ、リヒャルト・シュトラウスより「音符」が多い交響詩、あるいはマーラーより長い交響曲を「作曲中」とか、シェーンベルクを超える手法を発見して、既に六十段の五線紙(!)を製作中とか、目下書いているソナタは「作品二十一の十三」であるとか、いやはや、もし青春というこの時期に関する理解に乏しい人が聞いたら、ある種の病院に急報したくなること確実のような、「可能性としての天才」がひしめいていたわけだ。そして、学校からきちんと予算もついたので、この委員会は喫茶店その他でかなりひんぱんに開かれていたものだった。
 この委員会で、何もまとまらなかったのは言うまでもない。なにしろ、船頭が多くても物事はうまくいかないというのに、ここでは「天才」がいっぱいいたのだからやむを得ない。議論は百出し、派閥もいろいろできた。民族派と国際派、前衛派に保守派、高踏派と大衆派。そして、こういった諸子百家の中で、最も威勢のよかったのが、シェーンベルクの虎の威を借りる一派だったわけだ。ちょうど、例の大アジテイター、ルネ・レイボヴィッツの文章などが次々と紹介され始めた頃で、理屈じゃ負けないからね、といった空気がこの一派にはムンムンしていたのだ。
 それにこの「シェーンベルク派」は、実作を免除されたのも威張り続けていられる大きな理由だった。なんといっても課題曲は都立高校の校歌であって、ということは、ある程度の音痴にも参加でき、かつ音痴の参加によってもさして支障の生じないような程度のもの(!)でなければならない、といった理由からだった(それならむしろ「シェーベルク派」向きではないか、という痛烈な保守派の弥次が出たのはもちろんだが)。
 大分あとになって知ったことだけれど、この「新校歌」は委員会発足以来一年半にわたってその中心を占めてきたぼくたちの学年が卒業するやいなや、たちまち、土岐善磨大先輩作詞の「星稜われらあり、自由の天地、希望の空ひろく雲晴るる時。・・・・・・、ああ若き日のよろこびに、歴史を誇る日比谷高校」といった感じのもので完成したという。きっと学校当局は、うるさい連中が卒業してホッとしたのだろう。それにしても恥ずかしい。何故なら、ぼくもその委員会予算を全くムダに使い果たした「天才」どもの一人であり、しかもその困った「シェーベルク派」だったのだから。
 念のため言えば、ぼくはその頃二十世紀後半を代表するピアノ協奏曲の「傑作」を「作曲中」であったが、それはいまだに「作曲中」であるのはもはや言うまでもない。

 なにも音楽に限らず、この年頃においては、哲学・思想・芸術から三面ベタ記事に及ぶあらゆる知識が、仲間をオドカスたねとして総動員されるものだ。そしてこの場合、クラシック音楽に関する造詣は、最も典型的なペダンティックな武器として濫用されるむきがあるように思われる。シェーンベルクの虎の威を借りるなんてのは、或る意味で最もオーソドックスなコースなのだろう。そしてもちろん他にもいろんなコースがあった。シェーンベルクなどをかついでいるのはまだワカイのであって、音楽はモーツァルトに始まってモーツァルトに終わるのだよ、といった例の悟りすました老成派から、当時流行りだしていたミュージック・コンクレート絶対の前衛派に至るまでのあらゆるあの手この手・・・・・・。若いということは、要するに、なんでもいいから一国一城の主であることを至上命令と考えるものであるらしい。
 ところで、そういったあの手この手のなかで、最も鬼面人を威することに成功したものとして、「ラフマニノフはいいなあ」という一喝があった。これはまさに「天才的」若いモンどもの盲点をついた感じで、満座を圧した。『運命』『未完成』『新世界』などに感激しては沽券にかかわる、少なくとも人前ではいけない、といった心境に置かれていた時期の記憶を誰もが持っているとぼくは確信するものだが、そんな状況のまっただ中でラフマニノフをかつぎ出すことのダンディズム(?)。
 それからしばらくの間、この手はずいぶん流行したもので、その流行は、やがて「名曲喫茶風居直り」という総括的述語が定着するまで続いたものだった。
 その点、リヒャルト・シュトラウスは、どんな形で持ち出されても、漠としたウサンクササを常に伴う種類のコワモテをしていたものだ。その当時では、彼の作品はまだあまり聴けずにその全貌が分からなかったことも理由の一つだろうが、それよりも、二十四歳で『ドン・ファン』はいいけれど二十五歳で『死と変容』とは何事か。しかもそのあとが『いたずら』かと思うと、『ツァラトゥストラ』に『英雄』ときて、『家庭』における夜の「夫婦生活」とは、これはどうなっているのか(当時、『夫婦生活』という悪名高い雑誌があって、みんなこっそり鑑賞していたものだった)。
 つまり、青春という時代の若者の用語法においては、「純粋」という言葉は「単純」であり、「不純」という言葉は実は「複雑」の誤用であることが多いわけだが、その意味でわれわれは、リヒャルト・シュトラウスのウサンクサイ「不純」さを「純粋」に信奉するわけにはいかず、さりとて校歌制定を目的とする「作曲家」集団としては、彼の実力の程に恐れいっている、といった滑稽な立場に置かれていたにちがいなかった。
 いずれにしても、一つ思い出すごとに改めてギャッといって駆けだしたくなるような、そんな話ばかりがどういったわけかつながって出てきた。

庄司薫「天才がいっぱいだった頃」『ぼくが猫語をはなせるわけ』中公文庫 100-106頁

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