眼球『ラカンはこう読め!』67-69頁

ラカンにとって、人間の欲望の根本的な袋小路は、それが、主体に属しているという意味でも対象に属しているという意味でも、他者の欲望だということである。人間の欲望であり、他者から欲望されたいという欲望であり、何よりも他者が欲望しているものへの欲望である。アウグスティヌスがよく承知していたように、羨望と怨恨とが人間の欲望の本質的構成要素である。ラカンがしばしば引用した『告白』の一節を思い出してみよう。アウグスティヌスはそこで、母親の乳房を吸っている弟に嫉妬している幼児を描いている。

  私自身、幼児が、まだ口もきけないのに、嫉妬しているのを見て、知っています。
  青い顔をして、きつい目つきで乳兄弟を睨みつけていました。[『告白』第一巻七章]

 ジャン=ピエール・デュピはこの洞察にもとづいて、ジョン・ロールズの正義論に対する納得のゆく批判を展開している。ロールズ的正しい社会のモデルにおいては、不平等は、社会層の底辺にいる人びとにとっても利益になりさえすれば、また、その不平等が相続した階層にもとづいておらず、偶発的で重要でないと見なされる自然な不平等にもとづいている限り、許される。ロールズが見落としているのは、そうした社会はかならずや怨恨の爆発の諸条件を生み出すだろうということである。そうした社会では、私の低い地位はまったく正当なものであることを私は知っているだろうし、自分の失敗を社会的不正のせいにすることはできないだろう。
 ロールズが提唱するのは、階層が自然な特性として合法化されるような恐ろしい社会モデルである。そこには、あるスロヴェニアの農夫の物語に含まれた単純な教訓が欠けている。その農夫は善良な魔女からこう言われる。「なんでも望みを叶えてやろう。でも言っておくが、おまえの隣人には同じことを二倍叶えてやるぞ」。農夫は一瞬考えてから、狡賢そうな微笑を浮かべ、魔女に願う。「おれの眼をひとつ取ってくれ」。
ジジェク『ラカンはこう読め!』67-69頁

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