あなた自身が信じる必要はありません。『パララックス・ヴュー』627-628頁

 ニールス・ボーアは、アインシュタインの「神はサイコロ遊びをしない」に対して正しい解答(「神にむかって、あれこれしろと指図するな!」)を与えた人物だが、信じることのフェティシズム的否認が、イデオロギーのうちでどのように作用するかについて完璧な例を提示してくれる。彼の家のドアに蹄鉄が掛けられていることに驚いた訪問客から「蹄鉄が幸運をもたらすなど本当に信じているのか?」と尋ねられたボーアは、ピシャリと言い返す。「私だって信じてはいないさ。信じなくとも効き目はあるって話だから、そうしているのだ」。このパラドックスが明確にしているのは、信じることは反省的態度だということである。信じるというのは、単純ではない――ひとは、信じていること自体を信じなければならない。キルケゴールが正しかった理由である。彼が主張するところでは、我々は(キリストを)本当に信じてはおらず、ただ信じていると信じているだけである――そして、ボーアが我々の眼前に突きつけているのは、この反省性の論理的な否定文にすぎない(ひとは、自分が信じていることがらを信じないことも可能である……)。 
 「無名のアルコール依存者」(アルコール依存からの立ち直りをめざす集団)は、一見したところよりも複雑である。それは、信じることへの発生のしかたを説明してくれたりはしない。むしろ、それは、説明を要求する。最初にはっきりさせておくべきことは、パスカルの「ひざまずけ。そうすれば、信じられるようになるだろう!」は、一種の自己言及的な因果関係を意味するものとして理解されるべきだということである。それは、次のようになる。「ひざまずけ。そうすれば、信じていたからひざまずいたのだ、と信じるようになる!」次に明確にすべきは以下のことである。イデオロギーの「通常の」シニカルな機能では、信じることは他の主体へと置き換えられる。つまり、「信じていると想定された主体」へと置き換えられる。したがって真の論理は次のようになる。「ひざまずきなさい。そうすれば、それでもって、誰か別の人間に信じさせることができます!」われわれは、これを額面通りにうけとらねばならず、思い切って、パスカルの定式の一種の転倒さえやってみなければならない。「あなたは、あまりに信じすぎているんですね?あまりに直接的に信じているんですね?自分が信じていることが、そのむきだしの直接性のかたちでは、あまりに重圧だと感じるんですね?そうだとすれば、ひざまずいて、信じているかのように行為しなさい。そうすれば、信じているということからぬけだせます――もうあなた自身が信じる必要はありません。あなたの信じていることは、すでに、祈りというあなたの行為に客体化され、外―在しています。」すなわち、ひとが、ひざまずいて熱心に祈るのは、自分自身の信じることをとりもどすためではなく、まったく反対に、信じることから信じることへの過剰な接近からぬけでるためだとしたら、どうだろう?つまり、信じることから最小限の距離をとって、息をつけるような空間を確保するためだとしたら、どうだろう?信じること――儀式という外在化する媒介なしに「直接に」信じること――は、重荷で、重圧で外傷的なたえがたい負担であり、これを〈他者〉へと転換転移できる機会をつくるには、儀式を実践することが必要である。
 フロイト的な倫理的命令があるとするなら、自分の思うところを断行する勇気をもつべきだというのがそれである。ひとは、あえて自分が同一化したものを完全にひきうけるべきである。そして、まったく同じことが結婚についてあてはまる。結婚についての月並みなイデオロギーの暗黙の前提(あるいは、むしろ、命令)は、まさしく、そこに愛があるべきではないというものである。結婚についてのパスカル的定式は、したがって、次のようなものではない。「相手を愛していないというのですね?それならその相手と結婚し、生活をともにするという儀式を実行しなさい。そうすれば、愛は自然に生まれますよ!」パスカル的定式は、これとは反対である。「あなたは、だれかをあまりに愛しすぎているというんですね?それなら、過剰な熱烈な愛着をいやし、この愛着を退屈な日常のおさだまりにかえるために、結婚して恋愛関係を儀式化しなさい――そして、あなたが、情熱の誘惑に抗しきれないなら、いつでも婚姻外の情事がまっています・・・・・・」。
アラン・バディウが、二重否定は肯定と同じではないと強調するとき、それによって、かれは、だまされない者はさまようというふるいヘーゲル的モットーを確認しているにすぎない。「私は信じる」という肯定命題をとりあげよう。これの否定は、次のようになる。「私は本当には信じてはいない。私は信じているフリをしているだけである。」これについてのヘーゲル特有の否定の否定は、しかしながら、直接的に信じることへの回帰ということにはならない。否定の否定は、「私は、信じているフリをしているフリをする」という自己関係的な見せかけである。これが意味するのは、「私はそれとは気づかずに本当に信じている」である。
ジジェク『パララックス・ヴュー』627-628頁

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