ロウドウの残念 市村・吉増『この時代の縁で』65-70頁

市村: 『ショアー』を語るのはやはり難しいです。
吉増: やっぱり困難な、語れないものを前にして、一生懸命、こう、目を瞑ってみるというのは大事ですね。もっと、もっと、ね、口ごもればいいんですけれど・・・・・・。
市村: たしかにそうです。
吉増: 口ごもっても、言葉のほうが出てこうようとしちゃうんでしょう。それをさえ、もっとおしとどめるような、もう一つ、ちがう「手」がほしいんですけど、それを育てることができないでいますね。
市村: 特にああいう、どう語っていいかわからないものについて、語ろうとするときというのは、何かを言ったあとの残余のほうが大事なんですね。その残余をなんとか伝えたいなと思うんですけれども・・・・・・、その残ったもののほうをですね。しかし、それは「残余」という言い方をしてしまうのはまずいので、残余という言い方をするから、さっきの翻訳の概念というのが出てくるんでしょうけれど、やっぱり伝えてくるもの、伝えてきた事柄、伝えてきた細部、にこだわり続ける、こだわり続けていくことのほうが大事なのですね。翻訳しうる範囲内で、それを日本社会へシフトしたというのではなくて・・・・・・。
吉増: そうですね。残像、残、残、残像・・・・・・。残というのは妙な字で、そうですねえ、今朝も市村さんの「残像」についての文章を読みながら・・・・・・。あのう「残念」という言葉があるでしょう、ねえ。残念・・・・・・。それで、ぼく、同年代で親しい彫刻家の彼と一緒に三十年も彼の「なまし銅版」とたがねを、殊に水辺にはこんで書字を長い時間かけて打ち込むという作業をやってるんですけど、その若林奮という人に「労働の残念」という言葉があって、とても印象に残っています。
市村: 「ロウドウの残念」?laborの労働?
吉増: ええ。なんでこんなタイトルを付けたのか、聞いたことはないんですけれども。おそらく、残念の「残」というのに、若林さん感応してな、というのはわかるんですよ。何かが残っていること、あるいは切りだしたものがちがうところに存在しはじめるというのでしょうか。若林さんのちがうところに存在しはじめるというのでしょうか。若林さんの違ういい方ですと、たとえば古いラスコーなどの洞窟画をみるとき、古代の人が、外界とそしてそれに加えて壁のむこう側もみていた、あるいは感じとっていたはずだというのですね。ですから若林さんの「残」は市村さんのいわゆる「もはやない」と「まだなお」に置き直すことのできるものです。それに反応して「残」という字をこう、四十か五十積み上げて書いてみたことがありました。だから、その残、残、残像というんですか、それを残という意味のほうにだけ引っ張らずに、残念、残念のほうに引っ張るというんですか、そうした知恵、それこそ知恵というよりもポエティックなもっともソフィスケーティドな知恵になるかもしれないけど、それの工夫を積み上げて、縁から縁へ積み上げていかないと、修練していかないと・・・・・・、と思いますね。
市村: あ、その「残念」、面白いですねえ。いや、「残念」だと、さっきの固有名の主たちが全部出てきますね。サルガドも、撮ったのは残念でしょう。彼は文字通り労働者の残念も含めて撮ってますね。残念でしょう。それからおそらくメカスさんもそうでしょう。
吉増: そうですね。
市村: リトアニアの残念でしょう。ニューヨークを撮っても、リトアニアの残念を・・・・・・。
吉増: そうですね。おそらく、そうだ・・・・・・、いまおっしゃった言葉を聞いていて、その残念の「残」というのは、re-makeの「re-」に近いのかもしれないですね。
市村: そうです、そうです。
吉増: re-turnとかね。
市村: そうです、そうです。
吉増: そうそうそう、「回心」というのに近いのかもしれないなあ・・・・・・。あるいは巡ってみるとか、面白いですねえ。
市村: 実は、ぼくは、その「re」というのが大好きなんです。これは冗談半分ですけど、この間もある場所で若い人たち、学生たちに――彼らはもちろん新しいものが好きなものですから――、freshなんてそう大したものじゃないってぼくは言ったんですね。新しいものって、すぐ古くなるよ、re-freshのほうがはるかに魅力的だって。この「アール イー」が付いたらいかにみずみずしくなるかって。日本社会のfreshなんてものはもうすぐに古びてしまって、すぐに腐臭を放ちはじめるけど、re-freshという迂回路をへたものはそうではないと・・・・・・。だから、その re というのは非常に面白いです。
吉増: re-cycleですね。
市村: まさしく、巡りいくこと、迂回することが大切なんですね。そういう意味で、この時代は、遠回りすることが核心に辿りつく途なのかもしれない、というふうに思います。『ショアー』のあの九時間半もの長尺も、あるいはそういう迂回路として考えることができるかもしれない・・・・・・。残念というかたちで、その「re」という力の方向性を含んだ言葉が出てくると、ぼくのなかでは、ある決定的なものが動きだすのを感じます。この『ショアー』の人たちにとっての、「re」ですね。もちろん記憶っていうこともあるんですけど、その記憶というのは、ただ単に思い出すということだけではなくて、彼らはあそこで「生きなおさせられててる」んでしょうから、re-viveされたものを辿りなおす、あるいはそこに辿り着こうとする・・・・・・、そのre。もちろんre-turnでもあるんですが、re-memberでもあるんですが、それだけではなくて、やっぱり「残念」という言い方がいちばん適切、的確ではないかなあと・・・・・・。それで、手紙のやりとりのなかで往き来した名前の主たちは、それはさきほどの人たちのほかにもバルトークでも誰でもそうですが、やっぱりその「残念の蒐集家」たちなんですね。

吉増剛造・市村弘正『この時代の縁で』平凡社 1998 65-70頁

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