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目に見えないものの価値
書くということは、なんとなく自分の中に埋もれた考えや価値観の輪郭をハッキリさせてくれるものだと思う。
昨日のnoteに、「対話など形のないものの持つ価値を自分が信じきれていない」と書いた。そう書いてみて、私はそんなふうに思っていたのか?!と驚いた。私は本当にそう思っているのだろうか。
私がやってきたことは
私が心理士として働いてきた10年ほとんどの時間を、人が直前している出来事や気持ち、葛藤やニーズといった目に見えないものを聞いたり書いたり話しあったりしてきた。同僚の作業療法士さんが体や運動など目に見えることを扱えるのを羨ましく思うときもあったけれど、心理士ならではの味わいをだんだん受け入れてきたはずだった。
心理士としてやってきたことは、例えばこんなかんじ。
・クライアントの話を、他者である私が理解していくとプロセスを使って、クライアントが内面を整理することを手伝う
・クライアントの状況を検査や私に伝わってくる感覚を通して、その人の特徴や状況について仮説をたて、過ごしやすい日常を一緒に探していく
ニーズはあったから、自己満足だけでない仕事だったのではないかと思う。
でも、この形ないものを扱う仕事の価値を深く考えたことがなかった。
価値ってなんだ?
心理士の仕事に注いでいたエネルギーを、きいて書くというポートレイトの活動に注いでみようと動きだした今、初めて価値について考えている。
セラピーやコンサート、形を持たないものに投資するのに抵抗はないはずなのに、自分がやろうとすることにはポートレイトという形・具体物を持たせないと落ち着かないのはなぜだろう。
心理士の仕事をしていたとき、クライアントの変化をどのように理解するのが妥当かと考えることがよくあった。クライアントが自分の力や資源で日常を生きられるようになり心理士を必要としなくなるのは喜ばしい展開。
一方で、クライアントが心理士のもとを訪れなくなるのは、心理士の働きが自身にとってプラスになる(価値がある)と思えなかったからというケースもある。
クライアントが来なくなるという事象はひとつでも、相手が感じていることは大きく異なる。このことが私をビビらせているのかもしれない。
実際は、クライアントが私との時間に価値を見出せなかったとしても、それが布石となり一層合うサポーターに会えることもあるだろうし、うまくいかなかったと思っていたことが時間を置くことで違うギフトに変わることもあるはずなのに。
自分の活動をつくるどこかのタイミングで、ポートレイトという具体物を渡すことでセッションの終わりを明確にできるのでは?と考えた気がする。
相手の受け取る価値を、私がコントロールしたい/できると思っていた傲慢さに気づいてゾッとした。
自分に嘘がないことをコツコツ続け、活動をつくっていこうと再確認する。
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