震災日記 2024年1月1日

大晦日は夜遅くまでTVerで日本テレビ『おもしろ荘』を観たまま寝落ち。
元旦は朝から妻はずっと寝ているので、私は隣の部屋で会社の仕事をする。

すでに時計は午前10時を回っていた。12月の勤怠締め処理を行う。日本各地に散らばるスタッフ勤怠に不備がないか確認する。一通りの案内を終えて一旦休憩に入る。

昼は実家から貰った冷凍牛肉・キャベツ・ニラを鍋スープで煮込む。冷凍庫に眠っていた中華そばも合わせて食べる。

午後からは県立図書館から借りてきた本を読む。
今読み進めているのは渋谷のラジオ BOOK READING
CLUBで文筆家の宮崎智之さんが紹介していた『読む・打つ・書く 読書・書評・執筆をめぐる理系研究者の日々』(三中信宏著 東京大学出版会)
時折YouTubeでSUSURU TVのラーメン動画を挟みながら読み進める。

15時前に再び社用PCを開き返信をチェック。追加処理を終わらせて一通りの連絡を済ませる。その後も読書を続ける。

16時06分 足元がぐらぐら揺れ始める。また珠洲が震源の地震だろうか。
数十秒で収まるだろうと椅子に座ったまま身構える。
しかし揺れは収まらない。座っているのもままならない縦揺れが始まる。
これはただの地震ではない。視界が激しく揺れる。
本棚の蓋が開いて書籍を吐き出すかのようにバラバラと床にぶちまける。
レコードプレイヤーも本棚の上から落ちて真っ逆さま。
激しい音に思わず机の下に隠れる。

揺れが収まり妻の寝ている隣の部屋へ。外では車の警報が鳴っている。慌てていたので台所の様子は確認できず。すぐさま避難する意思をお互いに確認して、それぞれの避難袋を持って外に飛び出す。所要時間およそ5分。大きなリュック二つとiPadを抱えて車に乗り込む。

車を走らせながらカーナビでNHKをつけると大津波警報が発表されている。
まさか日本海側で津波が起きるなんて。
津波予想5メートルの数字に狼狽しながらも、車を山に走らせる
グループLINEで避難を呼びかける。アナウンサーの鬼気迫る怒鳴り声に、LINEに打つ文字も命令口調になる。
山を裏側から登ろうとするが、パニックで曲がる道を間違える。
太陽光パネルが設置された行き止まりの山道に突き当たる。
「落ち着いてUターンしよう」と妻になだめられ、きた道を戻る。
遠回りしてでも山に登ろうと考え、市内に向けて車を走らせていると、本来行きたかった道を見つける。
すぐに引き返し、坂道を一気に登る。


山頂にはすでに津波から逃げるためにやってきた車がたくさん止まっている。
どこに停車するか迷い、ふもとに神社がある側の眺望台に向かう。
まだ満車にはなっていないので、一旦車を停め、妻を助手席に残し、眺望台まで歩く。市内を一望できる場所に立って、友人たちに片っ端から電話をかける。二人組の若者が私の横で市内の様子を眺めている。「津波警報が出ていてやばいんだけど、市内の友人が全然逃げてくれないんだよね」と私がぼやくと「地元の方ですか?ちょっと怖いですよね」と返してくる。

ひたすら友人達に電話をかける。受話器の向こう側から避難を呼びかけるアナウンサーの声が聞こえているが、当の本人たちは「とりあえず自宅にいるつもりです」との返答ばかりが返ってくる。避難指示に従えと言っても聞かないのであれば「たくさんの車が山に逃げてきている。とにかく高台に!」と方法を変える。重い腰を上げて幾つかの家族が動き出す。

駐車場に戻るために眺望台から降りると、山に登る狭い道が渋滞を始めている。なんばナンバーのベルファイアが狭い道の路肩でハザードを付けている。
運転席側から声をかけ「大阪から来られましたか?この先を登ったところにも駐車スペースがあるので、そちらに向かわれた方がいいですよ」と伝える。家族づれは感謝して坂道を登って行った。

車に乗ると私と妻のスマホが圏外表示になっていた。
安否確認ができないのはマズイ。
私たちも車を山頂に向かわせる。
駐車場がすでに満車なので崖側のスペースに車を停める。
電話が繋がる人、繋がらない人、LINEの返信がある人、そもそも携帯電話を持っていない人。固定電話にすら出ない人。最悪のシナリオを想定しつつひたすら電話をかける。楽天モバイルの電波が弱いのか、地震の影響なのだろうか。さっきまで2本立っていたアンテナが1本に変わり、ついには圏外になってしまった。連絡を取れないのはマズイ。何度もスマホを再起動して電波を拾えないか試す。

道の反対側にある駐車場の車の窓が開く。「余計なお世話かもしれないけど、そっちは崖崩れしたことがあるから危ないよ」とおじさんが声をかけてくれる。
感謝して車を移動させる。三叉路の道の真ん中のスペースに車を横付けして、安否確認を続ける。

ふと車の外に目を向けると、片側交互通行の道を、登ってくる車と降りていく車が互いに道を譲らず渋滞が発生している。列の短いほうの車に声をかけ、一旦バックして道を空けるように促す。こんなところで事故が起きたらひとたまりもない。

交通整理を続けていると、私の前で一台の車が停まった。
おじさんが私に声をかける。
「こんなに車が集まっているけど、なんかイベントでもやっているのか?」
呆れつつも車内を観察すると、テレビもラジオもつけていない。
「大津波警報が出ていて、皆さん避難しているんですよ。ご存知ないですか?」と尋ねると唖然とした様子で去っていった。

電話のつながった年配者が山の反対側の坂道で渋滞に巻き込まれ立ち往生しているとの連絡を受ける。正確な場所を確認し、歩いて車を探す。
いつもの青のワゴンRを見つけ、ドアをノックする。80代のお婆さんの運転で助手席と後部座席にもお婆さん。「とりあえずここまでくれば大丈夫だから」と伝え、ガソリンタンクの残りを確認して妻の待つ車に戻る。

18時前。あたりが真っ暗になってしまった。
友人と連絡を取り合いつつ、1人を除いて市内の全ての友人たちが無事であることが確認できた。一人暮らしのお年寄りの安否確認に私たち夫婦が向かうことになる。幸い津波は市内に来ていない。どうなるかわからないが、ひとまず山を降りることを決意する。

山の裏道を下って自宅近くの交差点に差し掛かると、大規模な土砂崩れが起きて交通規制がかかっていた。例のお年寄りの家も、私たちのアパートも規制の向こう側だ。仕方がないので環状道路を能登方面に乗り、次のICで降りることにする。まずは自宅へ。土足で上がり込み、半袖Tシャツとダウンのベスト、裸足でローファーを履いていた自分の服装を整える。幸いにもキッチン周りに割れた食器はなかった。ホットクック、食洗機、電子レンジを床に置き、車中泊ができるよう毛布を抱えて、キッチンにあったお菓子の入った袋を持って再び家を出る。

連絡がつかないお年寄りの家のそばに公民館を見つける。入り口で消防団やご近所の方が話し込んでいる。妻を車に残し聞き込みを始める。
「この奥に住んでいるOさんはここに避難していますか?」
皆が首をかしげる中、1人の男性が「私も近所で今から家に帰るところだから付いて行きますよ」と買って出てくれる。Oさんの家へ向かいながら世間話をする。男性も地震にとても驚いていた。まさか石川県でこんなことが起きるなんて。。。

そうこうしているうちにOさんの家にたどり着く。男性に感謝して玄関に駆け上がっていく。家の電気はついていない。インターホンを押して、ドアノブを回した。
「Oさん、いますか!!!」
奥からかぼそい声が聞こえてきた。玄関脇の引き戸が開き、Oさんの顔が見える。無事だった。真っ暗の部屋を青い光の緊急放送が照らしていた。
ちょうど正月準備で食べるものを買い込んでいたらしく、食品は十分にあった。水も出ている。今後の避難に備えて、私の電話番号を残してくる。「頼むから電話がかかってきたら取ってほしい。家の電気はつけておいてほしい」とお願いしてOさんの家を後にする。

妻の待つ車へ戻る。2人で話し合い、再び山に戻ることにする。
裏道から坂を登り、広場の駐車場へ。すでに渋滞は解消され、山頂に見切りをつけて降りていく車が増え出した。駐車スペースを見つけ停車する。防寒用のアルミシートと毛布を広げる。テレビの画面では津波到達の知らせ。そして輪島が燃えているらしい。11月末に友人を訪ねて訪れたばかりだった。彼らは無事だろうか。友人たちが続々と自宅に戻っていく。NHKでは高台に避難したらそこから動かないようにと繰り返し警告している。当分はここから動かない方がよさそうだ。

家から持ち出したじゃがりこを食べながら空腹を紛らわせる。
ツイッターには古いつながりのある皆さんが続々とメッセージやいいねを寄せてくださる。ありがたい。荻上チキちゃんも北陸新幹線に閉じ込められているとのこと。とはいえすでにデマも拡散されているようなのでTLをつぶさに見ることは避けたい。妻が食い入るようにNHKの映像を見ている。刺激の強い映像が彼女の心にどれだけの傷を与えるのだろうか。テレビを消してradikoの音声に耳を傾ける。地元MROラジオは避難所など今必要な情報を伝え続けている。もう少し広い視点での情報が欲しい。radikoの地域を東京に変えると、TBSラジオでは長峰アナやニュースデスクの中村さん、原発に詳しい﨑山記者の声が聞こえてきた。同じ情報でも普段から耳馴染みのある声で聞くと安心する。ラジオ“パーソナリティー”とはよく言ったものだ。

21時台になると山頂の駐車場から多くの車が去っていった。以前として津波警報は出ている。妻と相談して比較的綺麗なトイレが設置されている眺望台に移動することに決める。山の兼六園側の坂を下り目的地に向かう。駐車場まで上がっていくと、避難してきた車がちらほら止まっている。きっと地震発生当初は満車になっていたのだろう。妻と交代でトイレに行き、毛布をかぶって横になる。輪島はずっと燃えている。でも眺望台から見える景色はいつもの美しい金沢の夜景だった。TBSラジオも特別放送から通常の放送に戻っていた。もう少しすればアトロク2の放送も始まる頃だ。津波到達時間もとっくに過ぎていることを鑑みて、山を降りることにする。

帰宅したのは22時前だった。暖房をつけ、ラジオに耳を傾ける。妻は布団で横になりスマホのニュースを見ている。私はradikoをポケットのスマホで流しながら、昼食の鍋を温め直して具材を追加する。ホットクックを稼働させている間に、私の部屋に散乱した本を片付ける。レコードプレーヤーは完全に壊れてしまった。本棚が傾いているが、足が折れたのではなく抜けているだけのようだ。同程度の地震が来れば持たないだろう。とりあえずレコードと本を床の隅に寄せる。気づけば半袖Tシャツ一枚で作業していた。外は寒いのだが、おそらく興奮して体温が上がっている。息も上がってきた。

妻が心配して横になるよう促してくれた。温め直した鍋を2人で啜りながらアトロク2を聞く。2011年3月12日のウィークエンドシャッフルの放送を思い出した。被災地に配慮して言葉を選びながら話す宇多丸師匠と宇垣さん。そして通常放送を行う意義を説明する。やはりこの番組は信頼できる。一方、妻は興味がないので自分のスマホでニュースを見ている。本音を言えば少しニュースから目を逸らして気持ちを落ちつかせて欲しいのだが。珠洲の実家が被災しているのだから強く言うわけにもいかない。2人で布団を被り各々のスマホを眺める。NERVの通知が来ていないのに、ずっと体が揺れている気がする。地震酔いだろうか。

25時。伊集院光氏の声が聞こえてくる頃には意識を失っていた。

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