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勉強も、芸術も、すべてのはじまりと根っこって”感動”でしょう?

文明のはじまりを感動だと定義してみる。

私は勉強が嫌いではありません。好きかと聞かれると、どういう意味で聞かれているのか、と聞き返します。だって、暗記したりそれを間違えずに唱えたりすることに意味を感じないからです。

でも、暗記そのものが嫌いかと言うととんでもなくて、古典の暗唱とかは好きだし、生物や物理でも、これは知っておきたい!と思ったことは結構しっかり覚えています。

理屈はなくとも、世の中には自分にとって心が動くことがたくさんあります。
そういうのを「感動」と呼びます。

そんな私視点の「すべて感動から始まった」いうおはなしが、本日の本題です。


感動ってなんだろう。学びってなんだろう。

理由なんてなく、ただ心が震えたりキュっと締まったり解放されたりってこと、人生の中では無数に繰り広げられていると思う。

音に反応したり感動を音にすれば音楽に。
形や色に反応したり感動を形や色や素材で表せば美術に。
身体が反応したり、再現したりすることで体育に。
定義化して、言葉にして、誰もが納得するものになれば学問や宗教に。
…という風に、内容によってあえてカテゴリーを分ければその感動に名前がつくでしょう。
感動に名前をつけることが、つまり学問なのではないか、と思うのです。

そうして進んだ文明を、人が集まって、集団として組み合わせて再現して、業種が生まれたり村が生まれたり、伝えて効率よくしていくために師弟制度らしきものが生まれて。

それがあつまって国家的なものができたりして。想いの協定化やレベルの統一を願ってより大きな学校が創られて。
きっとそういう一大ファンタジーこそが、今私たちが生きている世界だと思うのです。


わたしのおきにいり

私のお仕事は、芸術の素晴らしさを伝えること。だと思っています。

小さい時からやってきた音楽。この感動を伝えることには絶対の自信がある。たとえば伝えるために主として使う「言葉」の音節的な構成や発声の仕組みについて考えるのも大好きで、例えば日々聞こえてくる電車のアナウンスについても、これまでたくさん言及してきました。

あ、駆け込み乗車の表現変えてきたな!なるほどうまい。
あ、今日の車掌さんのこの言い回し、うまいな。考えさせられる。
あ、今日は情に訴える系ね。でもよく聞き取れたわ。心のある放送って素敵。
あん…今日はちょっとおしつけがましくないか?
あー…読んでるだけやな。
ん♡新人さんかな、一生懸命話しててちょっとおばちゃん涙でちゃう。

とか(笑) 毎日、勝手ながらいろんな感想をもって電車に乗っています。

大きく話が反れたように見えますが、ここからが本題です。

このように、自分が感動することに関しては、人はかなり集中するのです。
そして、時に自分の感動が当たり前のようになって、ろくに説明もせず、自分の感動を人も同じように感じているように押し付けたりするのです。

学問のダメなところがあるとすれば、そういうところじゃないかな~っと思ったりします。

先ほどのセンテンスの車掌さんの話、共感できました? 「明日からそういう耳で聞いてみよう!」って思いました? (笑)
同業者なら、数割は理解はしてくれるかもしれませんね。

でも、もしかしたら「奥村、電車のアナウンス、まあまあフェチなんだってさ」「やっぱ変な人(笑)」くらいには感動してくれたかもしれませんね。
そして、超一流ではないですが、奥村は、そこそこ司会進行や人の誘導の上手な舞台人なのです。おかげさまで、かれこれ30年ちかくこれでごはん食べてます。

そう。つまり、どこの何に感動したか!
それこそが、学びの原点だと思うのです。


教育に無理やりつなげます。

つまるところ。感性豊かに…と、文科省が口を酸っぱく語る今の教育論を実現したいのならば、すべての専門家が今一度”自分の専門分野における感動”を見直すべきだと思うのです。
やってないとはいいません。
もっと自信をもってほしいだけなのです。

芸術を絶対好きになれとは思いません。
でも、芸術を好きになってもらいたいから、私は自分が日々感動できることを実現するために日々楽しくもがいています。
私の周りの子どもたちは、音楽がそれはそれは豊かに楽しめて、なんならコンテンポラリーダンスなんて踊っちゃったりして、美術がそれはそれは豊かに楽しめて、なんなら兵馬俑に変身してみようとか、自分でやりだしたりして、本当に、私たちに毎日元気を分けてくれています。

だから私は子どもたちという存在に毎日感動しますし、感動をくれる存在でいてもらいたいから、たっくさんの刺激をお届けしたりしています。

なんだってはじめは感動

知能を持てたおかげで、多種多様の感動の中に生きている私達。
ちょっとしたことで、感動の種がなぜか強制になってしまったり、感動を得る前に嫌な慣例と言う名の儀式を踏まないといけないことになっていたり、逆転現象が生じてしまうことも多々。

でも、それさえも人間という生物の不思議。
なのかもしれません。


素敵な感動をたくさん味わっていたい。
せめて「感動しろ」とか「感動するべきだ」という欲張りお化けにならないように。
感動を当たり前にせず
今この思いはどこからきているのかな。
今どうしてそう思ったのかな。
あぁ、だから心が動いたんだね。

子どもたちに問いかけているように、自分にも優しく、問いかけ続けていきたいとおもいます。

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