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自分史

第一章 渦の中

1980年、時代は高度経済成長を遂げ、世間がバブル期に浮かれるちょっと前、東京都台東区で産声を上げました。じっとしていられない子供でよくオムツ替えに苦労をかけたそう。母曰くヤマアラシ・野生児と言う表現がぴったりと言います。乗り物の遊具を使っていつも動き回っていたらしく、近所の同年代の男の子達と一緒になっていつもいたずらして走り回っていました。ダイナマンという戦隊ヒーローに憧れていたことをよく覚えています。実家近くのスーパーで行われた握手会では、ギュッと強く握られたあの手の感触は忘れられません。

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少年野球団

父が、行きつけの飲み屋で意気投合したという、町の少年野球団の監督から誘いを受けて、小学2年生から町の野球団に入ります。普段から寡黙でぶっきらぼうな父でしたが、練習の相手はよくしてくれました。

毎朝学校に行く前に「おい!いくぞ!」と一喝されて起床します(笑 ビクッと飛び起きたそのままの姿で練習に向かわされてスタート・・近くの河川敷に向かうために父は、車に乗って息子の横を併走しています。ダッシュに近い速さで走らされ(笑 キャッチボールになると、父の胸付近に投げないと取ってもらえない・・罰ゲームのようにいつもハラハラしながら、当時は必死に食らいついていました。ショートバウンドして父の身体にぶつけてしまったり、トスバッティングでネットを超えて打ってしまう、そうなると一気に機嫌を損ねて「もういい!帰るぞ」とスパルタなのか何だったのか・・無言のまま車に乗り込み「僕はなにか悪いことをしてしまったのかもしれない・・」そんなショックを受けたまま登校の支度をしていました。父の機嫌を損ねないためにやってはいけないリストは結構あったと思います^^;

そんな特訓?!の日々のお陰もあってか6年生になると、弱小チームでしたがエースで4番・キャプテンを任されたりもしました。父からの勧めで入った少年野球団でしたが、小学校最後の町の東西対抗戦では、ホームスチール(!)が決め手となってMVPを獲ることができました。その日急いで家に帰って父に報告すると「あぁ、そうか」と素っ気ない態度でがっかりしましたが、その後母から聞くと嬉しくてこっそり泣いていたと聞きました。ぶっきらぼうです・・

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いっぱいいっぱい

小学生の時は陽気な人気キャラクターと思い込んでいましたが、だんだんと周囲との感覚の違いに気づき、心から楽しめない自分がありました。心がよく動くのです。心が動いてしまった振れ幅を元に戻す労力が必要なことに気づいていったです。そのため、心が動くその都度自分に向き合って、平静に戻す1人の時間を取らないと周囲についていけない孤立感や葛藤をひた隠すかのように、その場しのぎの繕った笑顔をとにかく振りまいていました。当時の同級生に聞けばきっと、いつも笑っていて明るい印象を持っていると思います。

自分に取り組んでいる合間に周囲は物事が進んでいました。
「なんとか合わせていかないと・・」と思って、正解発想を始めていったのです。「これで合ってるかな・・」「どういう表情していればいいんだろう?」「今腕を動かしていいのかなあ?」「これやっていいのかなあ?」そんなことを内面でやっていると、身体全体が硬くなってきて小学生の頃から肩こりがひどくありました。呼吸は止めているに近くて、声がすぐに出てこない感覚があり、周囲のペースと異なった自分は例えるとちょっと壊れたおもちゃのようでした。

なんとか持ち堪えようとする自分

いっぱいいっぱいがバレてしまうと笑われてしまう、バカにされてしまう、、そんな恐れからヘラヘラと笑う自分を選択していきます。違和感なくそこにいますよ、、と意識はいつも自分の顔面にあって、ちゃんと笑えているかな、、と表情筋を気にしていました。

笑いに埋もれる

ヘラヘラ笑う自分を作った功罪なのか、周囲からお笑い担当の期待に応えようとする自分がいました。とはいえ内面ではいっぱいいっぱいなので、緊張のまま緊張を生み出す悪循環、、。感覚としては笑いに潰されていくようでした。笑われるならまだしも、空気を凍り付かせてしまう大スベリばかりの間が耐えられなくて、毎日どっと疲れていました、、。

今でも緊張感のある状況にあっても、笑いに持っていきたがる自分が時折顔を出します(笑)

第二章 腫れ者

ピエロ


そんな緊張状態の日常を打破するために、当時ダウンタウンの番組を観まくって必死に真似ようとする自分がいました。なぜかというと、笑いを作り出せれば、なんとか自分の居所を死守できると思っていたからです。

腫れ者

どうぞ笑ってください、という自己呈示な自分でいるほど、顔が引きつってきて、周りを窺いながらまたいっぱいいっぱいになりあたふたあたふた、、開き直ろうとするんだけど、、なりきれない、、そんな日常を繰り返す自分を腫れ者と思っていました。

適応できない自分

中高ではいつもビクビクした自分になっていました、、。特に苦手な同級生に見つかると、顔が引きつっておかしな間を作ってしまうことを恐れるようになっていて「見つかったらどうしよう、、」そう思っていたので、誰から声をかけられてもビクっと反応して過ごしていました。まるで野球を始めた頃の私と父との関係を象徴しているようでした、、。

今でこそ冷静に振り返れますが、当時は一生懸命周囲についていくのがやっとですから、心が動きまくる人とのコミュニケーションには特に苦手意識を持っていました。恐れている感覚に近かったと思います。人と対峙するとそんな内面の葛藤を見透かされてしまう・・そんな恐れから、どこか縮こまった10代を過ごしていた感覚が強く残っています。

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第三章 あがく

救いへの誤り

「このままでは社会で生きていけない」だんだんと強い危機感を募らせていました。学生時代のアルバイトでは力仕事や流れ作業など、逃げるようにあまり人と接しない職種を選んでいたせいか、どれも長続きしませんでした・・。

笑いへ救いを求めながら笑いに埋もれていく、そんな感覚がいつしかお酒の場で昇華されていきます、、。タバコやお酒を始めていくと、ズブズブと刺激物の中に没入していくことになっていったのです。

毎日のように飲み歩き、お酒とタバコが体の中に入っていないと居ても立ってもいられなくなっていました、、。体の中に刺激物が入っていないとびくびくそわそわし出してしまう怖さから、救いへの誤りが始まっていったのです。

望みの昇華

お酒の場に行くと、抑えていた自分を解放することができました。大きな声を出しておちゃらけていると周囲が笑ってくれる、、。引きつって変な間を恐れる自分を麻痺させると、笑いを作り出すことが皮肉にも叶っていき、そんな刺激の多い場にどんどんと浸っていきました。

一筋の光

そんな学生生活の中で、アルバイトとして採用してもらう面接の時間は充実した感覚がありました。採用面接前に自己分析しながら履歴書を書き、PRを考え、応募動機の文章を整えて面接日を迎える。その一連の準備も楽しかったですし、何より面接官の方がどんな方なのか、この職場で働くとどんな人物像になれるのか、未来のサンプル(言い方すみません(汗))が目の前にいると思うと、とてもウキウキしていました。人と接することが大の苦手と思っていたはずなのに、一筋の光を発見したようでした。

それでも社会では生きていけない強い危機感は変わりませんでしたから、社会人としてのスタートは、自分を矯正するためにもコミュニケーション不可避の営業職を志していったのです。当時就職氷河期といわれるなかにあっても、好況・不況に関わらず女性をメイン顧客にした市場は安定しているのではないか・・そう思い、美容業界の営業職として社会人をスタートさせていきました。

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当時の時代背景もあってか、まずは「現場で泥を被ってこい!」そんな教えが待っていました。入社して間もなく新規飛び込み営業に向かいます。最初に向かったのは池袋駅前で美容室が密集している地域でした。紹介する予定の商品が掲載されているパンフレットを強く握りしめながら「忙しそうだし迷惑なんじゃないかな・・」「どんな顔して入っていけばいいのだろう・・」初めて飛び込もうとするお店の周辺を気づくと40分もウロウロしていました。意を決して入店すると「こ、、これ置いていきます!!」緊張のあまり入店後すぐ目の前にある受付にパンフレットを置いていくだけ・・そんな始まりだったのです。

1日の飛び込み件数だけはノルマ化されていて、今でこそ量が質を生む経験だったなと振り返れますが、当時は社会で生きていくために自分を鍛えなくちゃいけない・・と必死でした。なので、けっこう誠実に行動量をこなしていきました。

日々、行動ノルマをこなしていく中で、たまに売れた時の流れを営業の合間にメモしていました。「今のはどんなパターンだったんだろう・・」「また同じようにできないのかな・・」自分のうまくいくパターンを発見していく内に、少しずつ仕事が面白く感じるようになっていったのです。

脱皮への足掛かり

以前よりも成長した自分を少しずつ感じ始めていました。ただ、腫れ者として自分で勝手に背負ってきた荷物が重くて、どこか抜けきれない、、。腫れ者としての荷物を少しでも軽くしたい、、。そんな思いから、これまで腫れ者を目撃してきた人たちの印象を変えようとし始めました。「できないことができるようになったんだよ、だから認めてよ!」「周囲に適応できている自分になれているよね!」とでも主張するかのように、成長の確認をしていく活動を始めていったのです。いいように解釈してしまっていますが、、一人前になる脱皮への足掛かりに注力していきました。

第四章 結局粗大物

奮闘

これまでの自分とは違うんだ、成長した自分をもっと作り出すんだ、と思い、起きている時間のほとんどは、仕事のコツを掴むために没頭していました。夜遅くまで時間をかけたり、時には会社に泊まり込んだりして、非生産的でありながら、とにかく仕事の中に没入していることによって何かを掴もうとしていました。

粗大物

しかし職場では蔑まされる日々が待っていました。やれどもやれども評価されない、、距離を置かれる、、居場所がない、、二進も三進もいかない四面楚歌状態。完全に手詰まりだと感じていきます。

多くの美容メーカー商材を扱う卸会社だったので、商品講習会などの勉強会を美容室の営業後に遅くの時間まで行います。その講習会で先輩や同僚達はメーカー担当者に講師役を委ねていました。なぜか私は他の方に委ねるよりも新規開拓から講師役までワンストップでやってみたい、、そう思っていました。

自らの力で市場を創っている感覚が欲しかったのです。その思いを強めていた中で、会社の体制が大きく変わる方針が出されます。四面楚歌で二進も三進もいかない、、でも「ワンストップでお客さんに関わり続けたい!」そうした思いを行動に移していきます。

逃げの選択

転職して路線変更を決めました。誰も知り合いがいない土地に引っ越し、心機一転。そう思っていたのですが、、新しい環境からも跳ね返されてしまいます、、。というよりも相手から差し伸べてくれたであろう手を拒否していたのだろうな、、と思い返せます。なんとか仕事での実績を出して、周囲の雑音を黙らせるしかないと思っていました。

第五章 気合い

しがみつき

ここで適応ができなければ自分を壊すしかない、、覚悟を持ってしがみついていきました。

信じ始めた自分

前職と違って、卸会社を通さない美容メーカーに転身したのですが、そこでは会社が用意してくれていたセールストークがありました。前職から自分なりにボロボロになって作ってきたセールストークのベースが磨かれて洗練される機会になりました。

社内では定期的にセールストークのロールプレイングテストがあり、一字一句間違えてはならないルールがありました。間違えてクビになった人間もいたと聞いていましたから、周囲からはやめるなら今の内、と退職も促されたりもしていました。

でも当時の私にとっては、やっと渇望してきたコミュニケーションのやり方を手に入れられる、、!!そんな喜びの気持ちの方が優位でした。

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実際の活動も、前職から望んでいたワンストップな活動がありました。でもそれは売り上げノルマに向けて自力で市場を切り開いていく気合と根性(?!)が必要でもありましたから、当時は1年の内に20人くらいの人員が入っては辞め入っては辞め、が繰り返されている状況です。

そうした中でも前職と同じように、行動ノルマだけは自分に課していきました。背水の陣で挑んでいることと、長く渇望してきたコミュニケーションのやり方を手に入れ、さらにワンストップで自らが市場を創り出している意義を感じていくと、入社初年度は創業20年の会社の中で、月間売り上げ記録を4度更新し、臨時昇給と臨時賞与を年に2度経験することができました。小さい頃から渇望してきた、縮こまって人を恐れてしまう短所を打破できる、自分なりのコミュニケーションパターンに少しずつ自信を持ち始めていったのです。

とはいえ、自分を扱えず自分に振り回されてきた期間が長いからなのか「一喜一憂するなよ、、」という内なる声が絶えず聞こえています。再現性ある状態にならないと、またすぐに腫れ者の自分に戻ってしまうだろうと思っていました。

気合い

なんとか再現性ある自分に持ち込むために、大量行動を繰り返していきました。感覚的には「やってやるんだ、、」というセリフが頭にずっと貼り付いていて、重心低く前のめりな気合い・根性・突破の日々でした。

第六章 限界

檻から出る

全力フルコミットして駆け抜けた結果、会社からたくさんの評価はいただいたのですが、5年先まで必達目標が毎年倍増していくことを知りました。会社や周囲からの期待にも応えたいし、やるからにはフルコミットしてやるぞ、と思ってもいたのですが、5年ほど先にいる先輩サンプルを冷静に観察してみると、感情を無くして「仕方がない、、」と口を揃えて下を向いている光景がありました。さらに翌々年はそのまた倍をやるんだ、、と聞かされた時は絶望に近い感覚を覚えました。気合を続けていくことができないと分かり、少しずつ手応えを感じる中でも、いったい5年10年先どうなってしまうのだろう、、と漠然とした不安から、一度未来に向けて考え直そうと決めました。

そんな中で会社の市場からポッカリと外れていた地域で茨城県がありました。また裸一貫のワンストップでやりがいを感じられるチャンスではないか、そう思い、ダメ元で提案してみました。フルコミッションでいいので、茨城エリアを任せてもらえないかと・・会社からの応答は「よく言った!」と快く迎え入れてもらえたのです。

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軽快フットワーク

出退社がなく、経費支給も固定給もない裸一貫・・もちろん社員の時のお客さんはすべて会社に残した形で黙っていたら収入ゼロ、それでもやりがいは強く感じていました。社員時代以上に自分なりのパターンを繰り返し強化していき、個人事業主として独立初年度、社員で入社して記録更新した初年度以上の売り上げをつくることができたのです。鋳型にはめた自分が通用するんだ、そんな信念が身体全体のエネルギーとして宿り始め、がむしゃらに営業していきました。

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第七章 信じる道

信じる道

がむしゃらに行動量をこなしていく中で、ますます自分なりのやりがいを感じてはいましたが、行動量だけでは限界も感じていました。フォローやサポートのシステムをもっていなかったのです。

独立して3年が経つ頃でしょうか、、ビジネスとはそもそも何なのか、改めて学んでいく必要性を強く感じ、マーケティングなどのノウハウの中に自分を浸らせていきました。

大量の情報をインプット・アウトプットする中で、とある美容室と出会いました。そのお店はハワイアンをコンセプトにしていて、毎月お客さんを巻き込んだイベントを行っていました。ハワイアンな歌手を呼んではコンサートをしたり、部活と称してお客さんを巻き込んだ、今でいうサブスクモデルのイベントが盛りだくさん散りばめられていたのです。本格的な結婚式までメニューにある・・そんな変わったお店との出会いが、自分なりの商売の仕組みのベースとなっていきました。

「このお店ではいったい何が起きているのだろう・・」好奇心から毎週訪問していました。観察していく中でまずわかったのが、そのハワイアンなお店の従業員の方もお客さんも、とにかく楽しそうだったんです。つまり対象としているお客さんが喜んでもらえるゴールが達成されれば、別にカットやパーマでなくとも提供していい、そんなお客さんの感情をつくることを起点に日々の商売を営んでいることに衝撃を受けたのです。

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そもそも自分の弱みと思ってきた、心がよく動いてしまうことを商売のメインに据えてしかも仕事を楽しんでいる・・自分の弱みを克服する特訓のために仕事をしていた身としては、天地がひっくり返るほどの衝撃でした。仕事への取り組み方がまるっきり変わりました。

それからというもの、どうしたら人の心が動くのか、そして人の心の動きがどう成果に結びつくのか、その一連のメカニズムを追求していくことにエネルギーを注いでいくことになったのです。

そういえば営業活動をしてきてモノやサービスが買われる瞬間に何が起きているか、絶対にお客さんの心が動くなにかがあったはず・・と思い返していきました。「買う」という行動に出る前に心を動かす何かがある、そう思い、営業でうまくいった時にメモしてきた何年か分の手帳を見返していきました。

「プレゼンがうまく喋れなかったけど、お客さんが話し手を引き取って喋ってくれた。愚痴や不満を話し終えるとニーズのような希望を自ら喋られた。」「苦労話を聞いている内に目がウルウルと涙ぐみ、そういえばなんの話だっけ・・と商品の話に戻してもらえた。」振り返っていく内に、相手の過去をどれだけ共有できるか、重要なキーワードが浮き出てきたのです。

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続信じる道

社会に出て10年ほど経ち、いつの間にか短所を克服する目的も忘れてしまうくらい心の理りにのめり込んでいました。心が動くメカニズムについて追求していくための学びとして臨床心理士向けの大学に通信で通いながら、産業カウンセラーや日本コーチ連盟の連続講座などにも参加していきます。

心の理りを学習していく中で、周囲に翻弄されてしまうくらい心が弱いと思っていた自分がなぜそうだったのか、まず自己理解ができていきました。心の理を追求していくほど、大切にすべき本質は過去にある、と思いを強めていきました。確かに営業時うまくいった時を思い返すと、過去を語られるお客さんの語気が強まっていたり、感情的な表現が多かったりしていて、とてもパワフルでした。

この相手の本質に関わっていく過程を営業活動に取り入れていくと営業成果は大きく変化しました。1回当たりの平均購入単価はそれまでの3倍ほどの金額になっていたのです。

心が動きまくるメカニズムは自分だけに生じていた反応ではなく、他の人も心が動くメカニズムがあるんだという他者理解にも少しずつ繋がっていきまました。散らばっていたパズルのピースがハマっていく感覚だったでしょうか。営業を通じてのコミュニケーションがとても興味深いものに変わっていったのです。

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絆づくり

お客さんの感情をつくることを起点にして、徐々に行動量だけに頼らないフォローする仕組みをづくりを試みてもいました。仕組みといっても手作業量は多いのですが・・

まず定期便のニュースレターを刊行しました。自分新聞です。これまで押し殺してきた自分の感情が動いたシチュエーションを綴る自己開示や商品開発物語・使用者インタビューなどを盛り込んだお手紙から恐る恐る始めてみたのです。するとお客さん方は心で返してくれました

「お手紙ありがとう、いつも読んでるよ」「キャンプ始めたんだ、オススメの場所があってさぁ〜」など心が動く交流ができ、自分にも感情を起点にした商売ができるかもしれない、そう思えてきたのです。新規開拓後の3日以内にお礼の手紙を送り、1週間後・翌週・翌々週・1ヶ月・3ヶ月・6ヶ月・1年に渡って「お困りではないですか?」などから始まる、その時期に感じられる気持ちに寄り添った手紙をニュースレターと組み合わせてフォローを行う自分なりの仕組みをつくっていき、お客さん方の応援の声に後押しされながら、売り上げも安定していきました。行動量だけに頼らない心を通わせた交流ができていったのです。

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第八章 船出準備の不足

探索

理論・実践・仕組みが噛み合いだし、充実した日々を感じていた中、お世話になっていた知人の化粧品会社立ち上げを手伝うことになりました。

「一緒にビジネスをしていこう!」と誘われて、胸がワクワクと踊りました。全く新しい水脈を引っ張ってくることに恐れもありましたが、ワクワクとした気持ちに乗っかって、勇気を持って探索に出ることを決めたのです。

決裂

商品コンセプトから受託製造先や容器会社・発注ロット数など一か
ら会社を作っていく過程に携わっていったのですが、少しづつ衝突が起き始めます、、。

当時毎週決まった日時・時間に打ち合わせにをしていました。でも当日になってのドタキャンが何度も続いたり、打ち合わせに来たとしても合コンのセッティングの話になっていったり、、

ワクワクした未来像を共に作り上げる話題がほとんど出てこないことに憤りを感じていました。

未開に飛び込むワクワクした気持ちを持って一緒に携わらせてもらう決意を持っていきましたが、そもそもなぜ一緒にやる必要があったのか、、それぞれが何を持って仕事をしているのか、、、

お互いの共通認識がバラバラで大きな隔たりを強く感じていきました。お互い営業畑でそれぞれ持っているお客さんを持ち合わせられればなんとかなるでしょ、みたいな雰囲気が流れていたのです。その雰囲気を感じてはいるけれど、どうやって働きかけたらいいのかもわからず、新しい関係性を築けないまま結局決裂の方向に向かっていきました。

繰り返す意図

人との協力関係をうまく築けないことは積年の課題でもあります。この協力関係を築こうとする時にまず私が取り組まなければならないことは、自分の感情を感じることからだと今は解釈しています。

これまで自分の感情を感じようとすると、感情を感じていること自体、弱い自分と向き合うことだと捉えていて、負の感情に自分が支配されてしまう、、弱い自分をどんどん強化してしまうのだと思い込んでいました。

だから感情に蓋をすることによって即行動でき、その行動によって体験が生まれ、そうするとまた即行動できる自分への焚き付けるエネルギーを体験から獲得できると深いところで思っていたのです。

40を超えて捉え直してみると、別に感じることで弱い自分になるというのは決してイコールではないと思えますし、自分の感情を感じることの目的が、行動へのエネルギーに転換することなのであれば、エネルギーへの転換方法はもっと他にもあります。

選択肢のある自分に少しずつなれてきているのかな、と思いますし、選択する余白があることで、人との協力関係も少しだけゆとりを持って行えるようにもなってきました。

第九章 自分の旅

脱線回帰

最終的には軌道に乗せていく数年間を共にした後、自分1人で会社を立ち上げることになったのです。

うまくいかなかった経験を活かし、1人サイズの予算ギリギリで考え、弱者の戦略として商品を作っていきました。

特殊原料をつかった化粧品アイデアだったので、製造を受けてくれる会社は多くありません。それに実績もないしでなかなか取り次いでくれませんでした。それでも受託製造を引き受けてくださる会社さんを一件一件電話してお願いをしていきました。特殊原料は、産地や時季で品質が変わりますから、原料メーカーにアポイントを取って原料の成り立ち物語などをインタビューしに行ったりもしました。お客さんに送るレターのネタにもなります。

商品化されて手元に商品が到着する少し前から営業活動を始めました。テスターがいくつかありましたから、使用感や香りなど体感していただけます。営業する先も北海道から沖縄までデスクにタウンページをドカッと置き、一件一件電話してアポイントを取り、飛び回って営業していきました。

株式会社としてスタートしたのはBtoB市場を狙っていたからです。株式会社とてどこの誰だかわからず信用と実績がありませんから、発売前にプレスリリースを活用しました。新聞紙面などの掲載実績があればBtoB契約に至る信用を獲得できると思ったからです。しかも新聞広告なら一度で数十万円するところを広告費用はかかりません。プレスリリースは記事掲載扱いなので無料です。

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報い

特殊原料を使ったコンセプト化粧品としてFAXや、ここでも電話を使って新聞雑誌各社にアプローチをします。PRした翌日に大手新聞社2社・専門雑誌3社掲載が決まりました。東京・京都・大阪・富山・神奈川など次々と問屋契約が決まっていきました。最終的には某大手小売店の本部会議に参加してプレゼンを行い、プレゼン直後全国数百ある店舗で一斉販売が決まったのです。商談後本社ビルを出た先の小道にささっと入り、「よっしゃ」と小声でガッツポーズしてしまいました(笑

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全国展開の成功と共に・・

全国展開がスタートしてからは毎日受発注と梱包作業・伝票作りから発送作業までを行いつつ個人事業の営業活動も忙しく行っていました。大手小売店での取扱実績も相まって順調に大小問わず取扱販売店契約が、急速に広がっていったのです。そんな慌ただしく気が休まる間も無く働いていく中で、1年が過ぎた頃・・ゆるやかに受注量が少なくなってきました 

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市場の波にのまれる

これまで理美容サロン市場しか知らなかったといえば言い訳になってしまいますが、小売店市場での商品入れ替えスピードが思っていた以上に早かったのです・・プレスリリースで謳ったウリが、市場ではまだそれほど流通しておらず、絶妙なタイミングでプレスリリースから全国に広がりを見せることができましたが、豊富な資金や広告力をもつ後発の大手化粧品メーカーに
のみ込まれていったのです。問屋の担当者の方と相談していくと、ニノ手三ノ手と新商品や販促物を投下しないといけません、と提案されます。しかし
売り上げもスタートダッシュほど上がらなくなっていた状況で苦肉の新商品開発はうまくいくとは思えませんし、開発製造費用もありませんでした 。培ってきた営業力となまじかじった程度のマーケティングだけでは立ち行かない帰路に立っていたのです・・ 

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道合ってる・・?

もっと早くからできることはいろいろあったと思います。でもそのアイデアを形にしたいと思う熱量が消えてしまわぬ内に、その有り余る熱量を動源にして走り回る必然性が当時の自分にはありました 。常に売り上げに直結した
行動をしていないとソワソワしてしまう。そんな恐怖心をかき消すために行っていた営業活動を一度とめました。果たして自分はどこに向かっているのだろう・・ 真剣に自分の人生におけるミッションやビジョンを考えていったのです・・ 

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「可能性を解放してくれ・・」

化粧品ブランドの看板をお借りして27歳で独立し一から新規飛び込み営業で
市場をつくることができました。34歳でオリジナル化粧品を一からつくり、ビジネスとしてでき得ることを試行錯誤しながらもわずかな期間ですが市場をワンストップでつくることもできました。今後も小さな規模感で細々と続けていくことはできるかもしれません。でも自分の中にずっと抑圧してきたエネルギーが、いつも「可能性を解放してくれ」と訴えてきます・・ この訴えはどこからやってきているのか・・ 

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人生のミッション!

自分史を振り返っていくとあの縮こまった10代を過ごす中に一筋の希望を見た「面接が楽しい!」当時の感覚が原体験だったでしょうか・・ 沸き上がってくる衝動に近いエネルギーは、面接を通じて過去や現在、未来について意見を交わし、面接官と一体感を感じた、あの「いい感覚が内側から噴き上がって周囲に拡がる感覚」そこに自分のミッションがある!そう思うようになっていったのです。逆にいい状態ではない時は自分が自分ではなくなってしまうくらい縮こまって否定的な鬱々して全然動けない感覚になってしまいます。 

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道を思い出す・・

抽象的なことを言っているとは思いますが・・  顧客先であるハワイアン美容室と出会ってから心が動くメカニズムに目覚め、カウンセリングやコーチング・心理学の学習もしてはいました。でも自分の人生のミッションとの結びつきは、ここまで感じていませんでした。強制的に立ち止まれたおかげで、本当に向かうべき人生の方向性を知ることができたのです 。

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自分の置かれどころ

相変わらず情報に浸かっている中で「特にこの人はすごい!」と思える人たちは皆、対話に価値を置いていました。なぜかというと、対話によって相手の状態がどんどん良くなっていく、そんな働きかけを見たからです。私も人との対話に渇望してきたからか、より一層僕も対話によって「いい状態で動ける人を増やしたい!」そんな思いが高まっていきました。

以前の営業行為は、持っている商品知識をプレゼンするスタイルが常態化していました。しかしそれもコーチングやカウンセリングを深く追求していくにつれて、自分のコミュニケーションスタイルとは全く逆である、傾聴スタンスが必要であることを痛感していきました。

守破離の守

傾聴スタンスを身につけていこうとするほど、人間についての理解を一層深めなくてはならないな、と感じていました。一人一人異なる個性を受け止める関わり方をエニアグラム心理学をベースにしながら、自分なりの傾聴スタンスの手応えを掴んでいったのです。

自分ビジネス

日々ノウハウや経験を日記のような形式で振り返っていくと、そんな自分を試したい!自分を商品化していきたいという思いが高まっていきました。その後「カネなしコネなし人脈なしでも生き抜く営業力」というタイトルで、自主開催のセミナーをスタートさせ、毎月のようにレクチャーする機会をもちました。これまでに長く渇望し、獲得してきた自分なりの営業法を体系化して人様にお役に立てられれば、と開催日を1ヶ月先の日にちを具体的に決めて自分を奮い立たせ、なんとかセミナーの中身を作り上げていったのです。

人間がわかってきた

営業法を体系化していくと、相手の過去の中にその人の価値観が現れてくる、という相手の個性に触れさせていただく瞬間を大切にしている。価値観を分かち合うことこそが、自分のコミュニケーションスタイルだよな、と気づいていきました。それはずっと自分の扱い方にあくせくしてきたからこそ、相手の中にも相手操縦ルールがどのようなものなのか、つい見てしまう特性のようなものだとも思っています。

集中

自分操縦ルールを少しずつ手応えを感じていく中で、自分の興味と現実世界の不一致が経済的に現れていきます。持ち得る資源を総動員してつくったセミナーからヨチヨチ歩きのビジネスがスタートしていくのですが、とにかく忙しいのに儲からない、そんな状況に疲弊していきました、、

一歩進めては立ち止まり、、、また一歩進めては立ち止まり、、と
足元をよくみて進めた期間でした。

自分を商品化した観点から改めて考えていくと、ビジネスの主戦場は対話を通じて振り返る機会の提供と思いました。

私がコーチングなどを受ける時には、人生の時間軸で振り返りたいトピックを振り返り、セッションが終わると、内側から込み上げるエネルギーを獲得できます。

2015年から毎日欠かさずつけている1日の振り返りシートは、少しずつフォーマットを改良していて、そのシートをベースに1週間・1ヶ月・1年と振り返る期間は違えど、自分にとって存在意義を強く感じるツールです。

つまり自分にとってのエネルギー源の油田が過去を振り返るたびに湧き出てくる宝箱のような感覚に気づいていき、同時にビジネスのドメインとなっていきました。

この着想から、自分史を振り返って好きなことやりたいことを見つけて、そのやりたいことをビジネステーマに商品化して人に役立ち、収益化する、そんな起業コンサルティングサービスの展開につながりました。

第10章 試行錯誤

焦り隠し

セミナーを通じて少しずつビジネスを進める中で正解発想の自分が現れてきます。

それは幼少期からあった、父とのキャッチボールの時の感覚に近いでしょうか。

クライアントへのサポートがおぼつかなくなり、気落ちし、ビジネスどころではなくなってしまいました。

物語構成中

そんな意気消沈していた中で、藁をもすがる気持ちで父のお墓参りにいきました。1人で父の墓参りに行くなんて発想はこれまで全くなかったのですが、思いついて墓前にいってみると、色々と報告したい気持ちになりました。

新しいビジネスをスタートさせたドキドキとワクワクだったり、家族の状況についてを話していきました。

その日自宅に帰ると、墓前で父に報告した話をもう少し続けたいと思い、エンプティーチェアを行いました。エンプティーチェアとは、カウンセリング療法のひとつで、椅子を二つ用意し、椅子に座り直しながら一人二役で会話をしていくものです。

私「今日こういう機会を設けたのは、色々な報告と聞きたいことがあったからなんだ、、」父「そうか、どうした?」私「、、小さい時に聞けなかったことなんだけどさ、よくキャッチボールに連れていってくれたんだけど、どうして僕を置いて車で帰ったの??」父「、、すまない、、」私「実はとても悪いことをしてしまったような罪悪感を持っていたんだ、、」父「、、すまない、、」

父役の椅子に座ると、なぜか謝る言葉しか出てきませんでした。

私「いや、もう昔のことだしさ、別にもういいんだけど、親父に聞けて今日はよかったよ、ありがとう。」「これから新しいチャレンジをしていくからさ、今日はそれを報告したかったんだ。」父「お前が決めたことだったら応援しているよ、頑張れ。」

自分の口から出てきた言葉でしたが、途中から涙が止まらなくなって自分の部屋で号泣してしまいました。

第11章 エネルギー共鳴者探究

エネルギーが乗り出した

自分の中に幼い頃からいた、他人の目を気にして何もできなくなってしまう自分が癒されていく感覚だったでしょうか、、、ビジネスとして取り組む覚悟が強まりました。

エネルギー体

自分の領分は人に会い、リアルにエネルギーを感じる場所に行くことだと確信し、どんどん人に会うを繰り返していきました。

エネルギー共鳴者探し

人に会っていくと一定の確率でエネルギー共鳴者と出会います
エンプティーチェアをやってからか、、溢れ出たエネルギーの影響からなのかなんなのか、共鳴者たちから紹介者をいただいたり、良い話題が舞い込んでくる現象がスピード感を持って展開していきました。

居合う

自らがエネルギー体となってエネルギー共鳴者探究をしていると、何十人といる場であっても共鳴センサーが働きます。波長の共鳴を見極める感覚が鋭利になっていきました。

とはいえ集客しんどいな、、、

とはいえお客さんになるかどうか分からない中、初めましての人にどんどん会っていくと、掴みどころのない活動をしている自覚が強まり不安が押し寄せることも少なくありません。

協力要請が不得手、、、

思えば1人で切り抜ける、やり抜く、一点突破、気合い、フルマックスな個力の限界超えを何度も繰り返してきました、、

原体験は母からの教えに「普通はこうでしょ、人に合わせなさい。」合わせる側にスタンスを置くブレーキがずっとありました。昔から抵抗感強く抑圧してきたけれど、捉え直してみると、これからは人と協力して進めていきたい、そう思うようになりました。

心のブレーキ

とはいえ何十年もブロックしてきたブレーキはすぐには変わりません。ブレーキを外すと「否定されるんじゃないか、、」「周囲のペースに巻き込まれて自分が萎んでいくのではないか、、」そんなフレーズが頭の中を横切っていきます。

何十年もそうまでして人生に出現するブレーキの意図はなんなのか、、

自立ディフェンス

それは母と一体でいたい、無意識レベルの思いでした。
そこが居場所なんだと。。個体として自立してしまうと母との一体が成せなくなってしまう、、だから他者と防壁を持って、すぐに自分の世界に引き返してしまう。自分の中では、そんな命を守る意図に気がついていきました。

消させない務め

命を守る意図をさらに紐解くと、外の世界に魂が触れることによって魂が綺麗なままではなくなってしまう、、

そうなってしまわないために、自分を定義づけた存在意義が必要で、これまで渇望し続けてきた自分の存在意義の必要性は、魂を綺麗なままでいさせるためという高次な目的があったのだと理解できました。

第12章 世界観ツアーに出る

世界観ツアー

母との関係性の中に高次目的の魂活動を理解してからは、日々行うエネルギー共鳴者探究が、イメージで言うと、共鳴者と一緒に手を取り合って、共鳴者の世界観の旅をお供している感覚に変わり、より大きなところで共鳴者を受け止めて支えられる感覚を持つようになりました。

エネルギー共鳴者と出会い、自主開催する起業セミナーに参加していただくとこれまで以上にご縁が繋がっていく共鳴者が増えていきました。

第13章 細胞膜集合体

細胞膜のお隣さんが出来る

サポート内容の中核としても、自分史の振り返りサポートから相手の魂を守る存在意義を見つけにいき、魂の細胞膜を作るお手伝い感覚が強まっていきました。

社会的集合体

魂を守る細胞膜を作るお手伝いの先には集合体が現れます。まさに有機的に繋がっている自分という人間そのものの構造理解にクライアント自ら至り、その投影をそのまま社会構造にもリンクして観ていく、つまり社会的集合体に自己理解を深めた自分を試してみたくなるんです。

そのなったところで初めて、私も多くの失敗を繰り返してきた起業のやり方やツールが活きてきます。

第14章 魂を守る儀式文化

存在意義想起装置


存在意義の追求・・


BtoBでの化粧品メーカー業は必要以上の規模は目指さないことにしました。先様のご迷惑にならないよう丁寧な仕事と絆だけは育んでいきたいと思います。有形無形にしばられず「いい状態で動ける人を増やす」という価値を生涯にわたって提供していくことを自分なりの方法で続けていきたいと思います。ここまでお伝えしているプロフィールですが、40歳にして人生の棚卸しをしていくと、多くの記憶が蘇ってきました。小学2年生の時に親戚の集まりの中で同級生の親戚が大人から可愛がられている姿に自分にはそんな大人に取り入っていく世渡りなんかできない、と萎縮してしまう自分を思い出したり、周囲の大人から比較されてどんな顔でその場をやり過ごせばいいかわからず、作り笑顔をしているけどそれも素の自分じゃないなと内心思っていて、ずっともじもじしていたり、自分史を思い出していく過程を通じて改めて今後どんなことで役立っていけるのか、自分には何ができるのか・・人様や社会に役立てる存在意義とはなんなのか、いい状態で動ける人を増やすためにできることを追求していきたいと思っています。

プレゼンテーション5-1

登攀者の存在・・

小さい頃から周囲に翻弄され続け心に穴が開いているような欠落感を長く
抱えてきました。「このままでは社会で生きていけない」だから心の穴を埋めるために必死になって社会で生き抜く能力の獲得に奔走してきた・・ いつの間にか開いていた穴は塞がり塞がったどころか周囲よりもわずかに突出していった営業力や傾聴力といった能力を身につけることもできました。そんな自らの存在意義を獲得するために多くのエネルギーを費やしてきたもう1人の自分の存在を「登攀者」と名付けています。ゆるやかな登山ではなく聳え立った崖をよじ登る様を登攀というそうなのですが、まさに自分の半生を振り返ると登攀な己と共に生きてきたなぁ・・そう思えます

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理想の働き方の実現へ・・

感情にはそれぞれ存在意義があります。自分にとって不都合な感情は見ないように押さえつけ抑圧して生きている・・ そんな状態の方はこれからのVUCA(不確実性)の時代において不安な気持ちが溢れてきやすいため、ますます増えていくと思います。感情にこそ本当はその人らしさが埋まっていて、枯渇することのないエネルギーが噴出する価値観や信念が感情の源には在ります。そんな価値観を分かち合い、誰もが個性に開かれるお手伝いをしていきたい!相手をいい状態にしたい人で、そのために自分で自分のことをいい状態にしたい人を応援していきたいと思っています。そんな使命感に満ち満ちています。弱みを克服しようとするあまり業務の一部を担う役割の枠に収まることができず、製造小売の川上から川下までワンストップで担ってこそ、存在意義を満たせて自分なりの人への貢献になるんだ、とよじ登ってきました。そんな渇くことのない欲望もますます増大していくと思います(笑  わたしの過去の経験が、誰かにとって少し先の未来は明るいな、ワクワクするな、そう思われるような生き方・働き方を追求していきたいと思います。これからも特定多数のその人らしさのお役に立っていくことが楽しみでなりません^^

プロフィールにお付き合いいただきありがとうございました^^

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