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どちらがホンモノ?

時期について正確なことは覚えていませんが、おそらく2006年か2007年ごろに、それまでずっと信じていた「写真発表の場として写真展こそが頂点であり、そこにのみ作者は存在するのだ」という考えは誤謬なのではないかとの疑念を抱くようになりました。
神は細部に宿るというけれど、全体を俯瞰することこそが神なのではないか、というような視点の転換があったわけです。

そう考えるに至るきっかけがいくつもありました。
写真展を見終えて家に帰って目を閉じて、自分のなかに新しい眼が宿っていることを実感できることが少なくなってきたことや、インスタレーションのように純粋な展示から離れていく作家が増えてきたこと、数や影響力だけでいえばSNS(当時はinstagramではなくFlickerなど)のような媒体にまったく太刀打ちできなくなっていたことなど。
ブログなどに写真展の感想を書く人が激減していき、その感想を話し合ったりする人たちも減って、各々が”ココロのなかにそっとしまっておく”出来事に成り下がってしまったようで。

理由を考えてみて、三つの仮定が浮かびました。
1.時代背景などの変化により写真が力を失った
マクルーハンの考えを引用するなら、写真は視覚的なものでありながら、現在では聴覚的な受け入れ方をされています。コンテクストがあり、環境に支配され、ときには作者の人間性まで加味される——いや、されてしまう。
月に一枚のレコードしか買うことができなかった時代には、文字通り擦り切れるまで聴き直していたのが、一曲ずつのバラ売りまでされる時代には、曲目さえ覚えていないことはざらにある。写真も同じ。
SNSに氾濫しているイメージを、果たして”写真”という同じ名前で呼び続けていいものか? 
一千年前からカメラはあった。それを記録して、別の時間、別の人と共有できるように二百年前に写真は発明されたけれど、レコードが録音芸術として自立していくとともにライブの代用品であることを忘れ、ついには音楽そのものを壊し始めていくのと同じく、写真はすでに”見る”ことの代用であることを放棄したのではないか。見るという行為を侵食しつつあるのではないか。

2.見る、読む、という行為が追いついていない
写真には相変わらず力は内在しているものの、その様式が複雑になりすぎていて、そこにコミットする側が追いついていないのではないか。滋養はあるのに、それを咀嚼して吸収できない。
そこにはおそらく「映像を見るというのはプリミティブな行為であり、そこに込められたメッセージは習熟や鍛錬などなくても解り合えるものだ」という誤解が働いているのではないか。
ベッヒャーが、文脈の中にしか存在しないアートとして写真を成長させたときから長い年月を経ているのに、見るほうは何も進歩していない。むしろ咀嚼が間に合わないほど生産が進んでいる。おそらくは芸術と呼ばれるもののなかで、ただひとつ写真だけが「作る側がそれを受け入れる側よりも多い」といういびつな状態にあることが元凶かもしれない。
ロラン・バルトがそれを”ソシオレクト”と呼んで警鐘を鳴らしたように、個人言語が確立されていくだけで、言語本来が持っている力を揺さぶって再生するものではなくなっているのでは;これは写真を言語の一種として考えた場合について。

3.写真を補う何かを足す必要があり、その転機である

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