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Re:「まだ見ぬ写真」を撮ること

奇遇ですが、今回のパートナーであるロベルトさんとぼくは、初めて買ったレコードが一緒です。打ち合わせのときに驚きました。おかげで何かに例えるとき、音楽に置き換えながら会話ができるので、とても助かります。なにより楽しい。

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フィジカルで音楽を買う機会は以前よりは減りましたが、タワーレコードのような大きなレコードショップに行き、視聴コーナーを回ってひと通り新譜をチェックして、気にいるものが見つかると心が躍ります。
子どもの頃からそうだったし、今もそれは変わりません。ワーズワースが虹について語ったように、それがなかったら・・・。

CDは本とは違い、ぱらぱらとページを捲って最初の数行を読むというわけにもいかず、かといってすぐにCDを再生できるポータブルプレイヤーを持っているわけでもないため、帰路のあいだにセロファンを剥がしてライナーノーツを読みます。輸入盤でライナーノーツがなかったら、ジャケット写真を仔細に見つめ、どんな曲が入っているのか題名から想像を広げます。

ときどき、エスカレーターでフロアを離れるような、売場全体を俯瞰して見られるような瞬間に、「この中には、まだ自分が触れたことのない音楽で、でも人生を変えてくれるようなものがあるのかもしれない」という、期待にも不安にも似た気持ちになることがあります。
不安の部分は、その音楽とすれ違いながらも、出会うことのないままなのではないかと心のどこかで感じているからでしょう。

では写真は?

一枚の写真が出会いの記録であり、心の揺れを二次元に定着させた記憶であったラルティーグの時代とは違います。そこまで遡らなくとも、ロラン・バルトは「貴金属の変化によって愛するものを永遠にする」と写真を称しました。

現在、写真と接するときに、その映像の向こうに撮影者の姿や心を感じることは稀でしょう。それを撮ったのが自分であったとしても。
いつしか写真は写真のために撮られるようになった。気づかないうちに。

詩人は、日常化して古びてしまった言葉に揺さぶりをかけて、錆びて固くなったボルトを緩めるように、本来の機能を取り戻そうとします。
眩しいという言葉が持っていた、まぶたが開けていられないような感覚。眩いという言葉なら、そこに喜びの感情も加わります。

では写真は?




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