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価値ってなにかな? 魅力ってなんだろう?

夏目漱石の「こころ」は教科書にも載っているくらい有名な作品ですが、内容には欠点もあることがよく指摘されます。
この小説のハイライトでもある先生の手紙があまりにも長く、もしこれを紙に書いて畳んであったとしたらどれだけの大きさになってしまうか、検証している人もいるほどです。つまり「こころ Ver.1.01」みたいなものは誰にでも書けそうな気がする。極端な例を挙げるなら、誤字を直すことは作品の価値を上げることだと考えれば、誰にだって「こころ Ver.1.01」は書けてしまう。

映画、絵画、音楽、あらゆる芸術がそうです。
とくに現代では、そのようにして洗練され、アラのないものを評価する傾向にあります。創作に批評が先行している。でも芸術創作のプロセスとはそういうものではなく、作家の価値もそこにはありません。Ver.0.6くらいでもいいからまずはゼロから立ち上げること。ここに最も大きな力を注ぎます。

村上春樹さんが「少年カフカ」と題した企画で、代表作である「海辺のカフカ」に見つけた間違いを読者に指摘してもらうネットでのやりとりがありました。過ちだと認めたら次の版から訂正されるため、この小説にはたくさんのバージョンがあります。
村上作品だと「フォルクスワーゲンのラジエーター」や「ナットキングコールが歌う『国境の南、太陽の西』のレコード」が有名で、どちらも実在しません。多くの人が指摘しています。まるでそれを指摘することで村上春樹よりも上に立とうとしているように。

でも村上春樹ほどの作家で、本になるまでのプロセスでは編集者が目を通し、内部の読者もいるはずです。なのにどうして間違いを抱えたまま出版されてしまうのでしょうか?
校閲が機能していないわけでもなく、長すぎるから読むのが面倒だからでもなく、それを気づかせないくらい前に前にドライブさせていく力が強いから、つまりは魅力があるからだと僕は思います。

校閲者というのは、一般的に作品を芸術として捉えていません。小説の意味も、装飾的な価値も無視で、ただひたすら文法や文字の間違いだけを探します。こっちのページでは48歳だったはずが、次の章では来年に50歳を迎えると書いてありますよ、といったことを淡々とチェックしていきます。そのプロフェッショナルです。

現在の芸術の受け手たちは、ほとんどがこの性質を持っています。芸術作品を前にして、感動するより先に、その構造や欠点を常に探している。
それをすり抜けていくところに、むしろ凄みを感じます。
ゲルハルト・リヒターやマーク・ロスコの作品を前にしたとき、そこに作者という人間の存在を感じませんでした。その作品は必然から生まれたものに見えた。生きて向き合っているように。優れた芸術作品とはスタティック(静的)な存在ではなく、写真や絵画、彫刻のように動かないものでも、ダイナミック(動的)な存在なのだと気付きました。

「こころ」の手紙が長すぎることが気になって気になって仕方なくて、内容に集中できないという人がいるなら、それは作品としての欠点に違いありません。誤字や脱字はプラスになることがまずないので致命的な欠点です。
でもぼくは読み直すほどに、それが気にならなくなっていきます。むしろ魅力に感じるほどです。漱石ほどの作家が、それでもブレーキをかけずに突き進んだのだということに心を動かされます。

ワークショップのとき、ぼくは「価値ってなにかな? 魅力ってなんだろう?」と問いかけをしました。Ver.1.01を作る力はもちろん価値です。集合知がそれをするならさらに力を持つでしょう。みんなでバグをとってゆく。
でも魅力ではない。それに早く気づけた人は、ほかの人たちよりも常に先を歩けるんじゃないかと思います。



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