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空気の震えが音ならば、魂の震えが音楽である

ぼく自身のことで言えば、写真からは写真についてしか学べないと思っていた。写真を見るという行為は、撮ることに負けないクリエイティブなものであり、音楽、絵画、文学や映画といったものと較べてもなにひとつ劣ることはない。けれども写真の構造について学ぶためのテクストとして、写真だけに依存していたら、写真についてしか学べないだろうと思っていた。

時間をかければ、あるいは膨大な写真を参照することができれば、その壁を越えることはできるのかもしれない。でも自分には時間がないと早い段階で決心をしていた。いったんゴールを仮定することで、そこに向かうまでの道のりでペース配分をすることなく、全力で駆けることができる。村上春樹さんの短編「プールサイド」から学んだことのひとつだ。

いまになって思えば「写真が写真として優れているだけでなく、広がりや膨らみ、奥行きのようなものを持たせる必要があるはずだ」と考えていたのだと思う。
文章を書くことに関しては音楽から学んだ。写真については、映画や絵画よりはむしろ文学から学ぶことが多かった。

そこで、言葉と写真は響き合うのか、衝突してしまうのか、ことあるごとに考えてきた。いま写真にステイトメントを添えましょうと指導する教室は多い。作者による宣言は必要だ。
でもそれが作品の解説や、言い訳になってしまうようだと意味がない。映像は言葉よりもずっと素早い。けれども意味という点でいえば、バルトが書いたように「言葉はただひとつの真実を、イメージは無限の可能性を示唆する」。これはマラルメの「暗示するのは想像すること、定義するのは殺すこと」と合わさると、さらに深い意味を持つ。

何年か前、小さな写真展のために、散文を添えようとした。題名というには長すぎるけれど、決してキャプションではない。凝縮された言葉を用いる必要があった。
デザイナーがモデルになった写真には「かじりかけの林檎のための柔らかい殻」、ミュージシャンには「空気の震えが音ならば、魂の震えが音楽である」といった具合に。

写真と言葉は響き合うのか、それとも衝突してしまうのか、そのヒントは音楽にあるように思う。

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