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おたよりコーナー#21で読まれました

棚を作るのが大事。どうも、神山です。

読み返して、ゲンロン戦記の話でもあるのでは?など思いました。今回のおたよりは末尾につけている配信で考えながら話したことと直結しています。準備無しで話したりしてみるものですね。


さやわかさん、視聴者の皆さん、こんばんは。神山です。さて、今回のおたよりは、2/22に明治神宮でちょっとしたトラブルを起こした清涼院流水と、3/12にインターネットで物議を醸した「大怪獣のあとしまつ」の話になります。前回2通もあったので短めに、ゆきます!

2022/2/22に明治神宮に100人以上、清涼院流水の読者が集まるという珍事があった。これは『キャラねっと: 愛$探偵の事件簿』の企画で、この本の初版と『ザ・スニーカー』2004年4月号を持った状態で、刊行から18年後の2022年2月22日2時22分に明治神宮にいる清涼院へ合言葉を伝えるというイベント。初版本と雑誌の2冊を18年保管し、なおかつこの企画の存在を外部に漏らしたら中止になるというルールによって、当日になるまで非参加者は概要しか知らないという状態だった。現地には多くの読者が集まり、コロナ禍ということもあり、明治神宮の使用許可を事前にとっていなかった清涼院(とKADOKAWAの編集)は明治神宮に怒られることとなる。結果、後日別の方法でイベント案内をすることとなり解散となった。

【追記】現在は英語学習本の著者としてNHKラジオ英会話テキストに連載をもっている清涼院流水だが、キャラねっとの頃はまだコズミックから続くJDCシリーズも進行中、トップラン&ランドという現実世界の時間軸を参照する作品も書いている時期である。このときの清涼院流水は現実世界と虚構世界を接続することに意味を持たせた作品をいくつも提示している。『コズミック』や『カーニバル』といった過剰な人数の死を扱うことで、現実の悲惨さを物語に引き写すだけでなく、虚構での出来事を現実の読者に追体験させようとしていたきらいがある。キャラねっと以後の作品では自己啓発本を題材とした小説である『成功学キャラ教授 4000万円トクする話』や「全巻読めば英語が話せるようになる」という触れ込みの『パーフェクト・ワールド What a perfect world!』がある。流水大説という清涼院のジャンル自体が現実の変化を引き写すことからも、2022/2/22のイベントまでが「キャラねっと」であり、ゴタゴタも含めて作品であり歴史のひとつだというかたちで作者が・ファンが満足することも可能だろう。
→TheBBBにてこのイベントの舞台裏と進行について記載ありました。

【追記終】

なぜ清涼院(と編集)は明治神宮に対して場所の使用申請などを出さなかったのだろうか。集まっても10名程度の読者しか来ないだろうと予測していたのだろうか。他言無用ルールによって事前にSNSなどで読者の動きが読めなかったのはその一つかもしれないし、偶然重なってしまったコロナ禍が人数の過小評価を生んだのかもしれない。しかし、申請ひとつしなかったことが、清涼院が作品や読者を信じていなかったのでは、という疑念にも繋がってしまう。現実へのフィードバックを作品の仕掛けとしていた清涼院だからこそ、読者が具体的な行動に移すことを前提とし、たとえ10人しか集まらないにしても、泡沫候補が一応当選会見の為にホテルのホールを押さえるように、申請すべきだったのではないだろうか。

提供側と消費者の信頼を壊してしまった例として『大怪獣のあとしまつ』3/12にオリコンニュースに公開されたインタビューを示そう。

このインタビューでは、作品のプロデューサー2名が「特撮部分やギャグ要素に反応が偏っている印象を受け、伝えたかった三角関係の部分が伝わっておらず」「ごく単純な政治風刺なのですが、これがほとんど通じておらず驚きました」と、消費者にメッセージ・意図が伝わっていないということが前面に出される。にもかかわらず、結びには「本作に対する真の評価はこれからだと考えております。公開時の騒動で我々が仕掛けた多くの要素が見落とされたままだからです。(略)今後、劇場なり配信なり、本作を目にした方々が、それぞれに発見して楽しんでいただければと思います。」という初動の感想を「騒動」とし、作品はいいものだったから各自要素を発見してほしいと述べられている。

『大怪獣のあとしまつ』はギャグパートがコロコロコミックのノリをアダルティーにしたもので、ギャグ的ではない不倫シーンなどもあることからコミカルとはいいがたくなっており、過度な装飾・演出によって伝えたいイメージもメッセージも届いていないという印象であった。インタビューにあるようなキャラクター同士の関係性についても示唆ばかりであり、考察要素にはなるものの、作品のみで確信を得られるものではなかった。この考察に対して円盤や小説などを購入して踏み込んで検討しようとも考えていたが、このインタビューの内容によって、その気はなくなってしまった。こと自分に関してではあるが、インタビューにより信頼関係が結べなくなってしまい、作品を前向きに語ることを困難にしてしまった一例といえるだろう。

作者や作品について、消費者は様々な方法で語ることができる。その語りの強度を構成する要素のひとつとして、作者の作品や消費者への信頼がある。使用申請とインタビュー、片や事務的な手続き、片や人間的な応答と、質感は全く異なるように思えるが、機能としてはともに信頼関係の維持である。維持の失敗は、過去に遡ってその作家の業績すべてをゼロにするわけではないが、じわじわと疑念が膨れてしまえば、いつの間にか真に受ける人がいなくなってしまうかもしれない。主催者と参加者が信頼関係が結ばれた上でイベントや作品を楽しんでいると明示できなければ、そのイベント自体が単なる内輪の茶番でしかなく、熱意や体験の価値が未来に語られなくなってしまうのだから。

お読みいただき、ありがとうございました。


ということで、作家の作品や読者・消費者への責任の話となりました。以前送った古野まほろのおたよりとも繋がりますね。もちろん作家は自由でいい。一方で作家との接点が作品としかないことも多いのだから、ふと顔を出すとき何を言うか、何をするかは大事だなと思いました。自分も評論系とはいえ作品を出しているのだから尚更…。
頭に書いた通り、今回のおたよりはしめちゅーぶ#6と繋がっています。クソ長いですがこちらもどうぞ。
ではでは〜


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