観光としての読書会
キャンプかと思ったらアメフトをやっていた。どうも、神山です。
先日は月末読書会:課題本『信仰と想像力の哲学-ジョン・デューイとアメリカ哲学の系譜/谷川嘉浩』、ありがとうございました。今週末は関西クラスタさんで同書の読書会が開かれますので、今回参加してより深く知りたい聞きたい話したいという人や、今回参加できなかったひととか、参加してみればよいのではないでしょうか。
さて、感想戦などなど。
感想戦と記録のようなもの
まず今回の読書会の内容ですが、わりと普段とは違って主催(選書という意味では僕)があまり喋らず、喋れる人に喋らせる、という感じでした。普段は著者の参加などもないので、文面を好き勝手に読んだり、話題を飛ばしたりというプレイングで場を回しているので、専門知のある人がいたり、著者との応答パートを強めに持ったという感じ(いい言い方をした)でしょうか。
谷川さん=ミルチさんの推しポイントとしては、博論から構成を変えたことにより追加されている導入と終章、そして遊びまくってる註。本論から離れたことについても註に出てくるので、パラパラめくって読むのもアリだなと僕は思ってます。
デューイについての本ですが、ミルチさんの本でもあることから、部分的にミルチさんオリジナル要素などもあり、哲学を(というより、学問を、かもしれませんが)「する」というのは単に歴史や文脈を拾うことだけではなく、つながりを見つけ、繋げていくことでもあるんだなというのを読書会のさなかに考えてたりしました。読書会中のトピックとしても著者オリジナルなポイントはどこか、などが挙がっていましたね。
博論の書き方や、それを再構成して書籍にしていくこと、具体的な手順や手続きなどについての話も聞けて満足です(参加者にも、これらの話を主目的にしていたひともいたし、Latteさんも当事者だしね)。
半世紀で突然に進歩したアメリカ。急激に変化してしまっても、ひとの考えとかは簡単には変わらない。そういうなかで生きたのがデューイ。彼の専攻は哲学や心理学であるものの、学校・大学の運営というなかで、それ自体孤立しているわけではなく、外とつながっていることから、興味を公共哲学や政治学に手を伸ばしてく。
デューイは沈思黙考したり哲学の道をうんうん歩くという「哲学者」ではなく、ひとの会話の中にいたりする(ひとの影響を受けやすい)。時代の集合知のひと。本書では「信仰」がキーワードとした、デューイの宗教論は書籍のレベルではあまり表に出てくるわけではないものの、ミルチさんの直観として宗教や信仰というものがデューイの哲学のなかで重要ではないだろうかと考え、本書でアプローチしているとのことでした。
宗教と信仰についての話、参加者から「自然的敬虔」を我々は感じとっているのか、という質問があり、大いに盛り上がった。研究者だと先行研究や他の専門内でつながりを知るときに感じることがある。オタク文化的なもの(同人誌やコミケ)などに触れているときも感じる。プログラミングをやっているなかでQiitaの記事が引っかかることもそれっぽい。知識社会論でない例として、仏教とかでは「因縁」の理解、俗ぽいのだとハイエクの市場モデル、なども挙げられました。「ある程度歴史のある会社とかだと、(それこそ30年前みたいな)データ化以前の書類を読んでるときに感じるかもしれない」と僕は感じました。これはわりと研究者のそれと近いですね(ゲンロン戦記的な「事務は大事」という話と、本文中の
事実として、広義の「環境」に自己が負っているというだけでなく、「巨人の肩の上」(シャルトルのベルナルドゥス)の喩えが示すように[…]革新や創造は「ゼロ・トゥ・ワン」ではないし、真空や無に何かを作り出す魔法はない(p.242-243)
に対する「法人の肩の上」だなぁ、というコメントでした)。とりっくんさんによる、ゲームシステムの比喩がめちゃくちゃ面白かったです。
何故、プラグマティズム・デューイ・谷川さんが(社会学ではなく)哲学なのか、という話題も。ミルチさん自身については、あとがきにもあるが、
哲学は愛着ある事柄ではあるが、愛着ある事柄の一つにすぎない。[…]そのことは、本書に並んだ固有名や論述のスタイル[…]からもわかるだろう。自分の能力と義務と関心が許す範囲で、問いや状況に応じて必要な物事を学び、実践したいと私は考えており[…](p.348)
とあり、その点についてより深く話を聞けたりした。著者参加の読書会はこういうところが楽しいですね。
動物・機械・人形・人間と〈信頼〉
大体普段の読書会だと、本文を読み上げながら、気になるところについて話すというスタイルでやっているのですが、そのなかでこれまでの読書会で扱った著者や書籍への接続みたいなこともやっています。そういう手つきで本書を読んだときにいくつか接点が思い浮かんだのですが、読書会本編ではあまり直接言及していなかったのでここに書きます。
読書会前読書会や本編でも話しましたが、一番僕が本書でスッと入ってきたのは、というか興味深く読んだのは、人間と動物と機械の区別についての話でした。尚、これはデューイというよりはミルチさんオリジナルであり、書下ろしパートとのことでした。当該パートに関して、本書を読む前に『メディア・コンテンツ・スタディーズ』という書籍のミルチさんの書いた論文を読んでいます、ここではボーカロイドへの「信頼」(信仰ではない)という話をされていました。
[…]機械における言葉と世界の結びつきについて、直観的な推測が行えるほどのやりとりを積み重ね、推定の基礎となるような文化を作ることができれば、機械は「思考する存在」とみなされうる。これまで「機械」を検討対象にしたが、動物にも同様の議論を当てはめうる。[…]デイヴィッドソンの「歴史」概念が、デューイが「自然的敬虔」と呼ぶ共同性の感覚を支え、生み出すもののように思われることである。[…](信仰と想像力の哲学 p.77)
初音ミクが少しずつ有名になる過程に「居合わせる」ことは、初音ミクの成長にコミットしているという共同性を感じさせる。自分たちの「ミクさん」が、自分たちの活動によって少しずつ成長し、メジャー化の階段を登っているかのような感覚をもてるのだ。[…]異なる初音ミク観をもつ作り手/受け手は、それぞれの仕方で初音ミクに優位性を見出し、それゆえ、それぞれの仕方で信頼を抱いているのだが、それらの信頼は、初音ミクの有名化というストーリーを共有することで、相互補完的に機能している。作り手と受け手は、有名化というストーリーにおいて共同戦線を張っていたのだ(メディア・コンテンツ・スタディーズ Chapter.6「初音ミクはなぜ楽器でキャラあなのか」 p.65)
一方で、これまで月末読書会ではボーカロイドについては『廃墟で歌う天使』を読んでおり、人間と機械については『人形論』を読んでいます(人形論の著者は『動物に魂はあるのか』の金森修。高校の先輩です)。『廃墟で歌う天使』では天使=ミクは様々なものの中間に入り、様々なものを顕現させる媒体(メディア)であり、ミクは完成=最終的破滅を避け、破壊と創造を繰り返す(廃墟で歌う)希望のありかたである、と語られていました。『人形論』では人形三角錐(呪術・愛玩・鑑賞を三頂点とする三角形を底面とし、物質性を頂点とした三角錐)を概念枠として、様々な人形について、そしてそれにかかわる人間について、考察されていました。
この二冊を通すと、ミク(ボーカロイド)は物質性という部分では極めて小さい存在(敢えて言えば文字列だけ、もしくは投影される触れない「像」だけ)ですが、人形の一種であり、呪術・愛玩・鑑賞性をもつものです。基本的にミクに接する人がやっていることは愛玩や鑑賞ですが、『廃墟で歌う天使』のなかでのミクは呪術性も帯びています。この認識のもと、楽器や概念としてのボーカロイドを「信頼」し、ボーカロイドやそれを模倣した存在が使われる楽曲やコンテンツが増えることで世界が前進していくというのは、強弁すると、自然的敬虔により世界を創造していく本文の論と重なる部分があるのかな、と思いました。
偶然、読書会とは全く関係なく『純粋機械化経済』や『ヒトの言葉 機械の言葉』という本でAIについて読んでいたというのも、このパートに惹かれた理由かもしれません。AIは人間と会話できているようであるが、全然違う仕方で言葉や物事を認識しているので、「人間のように」物事を考えることは困難である、という話が両書に書いています。又、『ヒトの言葉~』には、われわれは他人が哲学的ゾンビかもしれない(同じように物事を捉えたり考えたりしているか人間相手でも判定ができない)ということも書いているため、そうなってくると「自然的敬虔」とか「共同体」の成立が困難かもしれませんが……。
次回は切手本!
というわけで、2月末(強弁)の読書会も楽しい時間となりました。カッチリした哲学書というか人文書をがっつりやるのは久々でしたが、こういう時間もいいですね。
さて、次回はLatteさん選書でこちらになります。
今年も真っ赤な本を選んだLatteさんでした(前回は『武器としての「資本論」』)。次回読書会は3月28日(日)ZOOM開催予定です。いずれ告知があるとは思います。ぜひぜひご参加くださいませ。
ではでは。
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