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私を全体のためにお使いください🙏🙏🙏


「求めること」についてのフランセスのYouTube(からの覚書)。



(「個人的」な利益は実在しないと知ってる)スピリットに求めること。
それを求める力が私たちにはある。

求める力をもった私がスピリットに求めると、
必然的に全体にとっての最善がもたらされる。

スピリットはそれ(全体にとっての最善)しか知らないから。


今までは、スピリットに個人的な利益を求めようとしていた気がする。
(「オレの心の平安」とか)

だからイマイチ一致感がなかったのか。

スピリットが知らない、それは実在しないと知っている「個人的な利益」を
スピリットに求めようとしてたからか。


わたしである全体、ひとつのこころのためにスピリットに求めるなら、
一致する感じがする。

その「全体」とは何だろう。


たとえば「私を全体のためにお使いください」というとき、

これまでは、

「全体」と「オレ」が別々にあって、
「オレ」が「全体」のために使われる、といった、そういうイメージだった。

それはどうもしっくりいってなかったと思う。



今日勉強会でシェアしたフランセスの動画にあった「信頼」の話。


この「信頼の状態」が今、私にとっては「全体」のように感じられてきた。


知覚している世界(こころのなかの世界)について、

「私はこれを選んでいない」
「ということは聖霊が私の最善のために選んだに違いない」

という、
無条件の完全な信頼を差し出したものとしての、
知覚のぜんぶ、私のこころのなかにあるぜんぶ。

これが「全体」。
この意味での信頼を伴って、それで初めて「全体」だと感じられてくる。


なんらかの選択をすることができる「私」と、外側の「世界」(信頼できない、疑わしき世界)があるのではなく、

私が選んでない
=聖霊が選んだ、信頼に足る、このまるごとすべて、こころに映し出されているすべて。

それが「全体」だと感じられる。

そこには「オレ」と「世界」という対立がない。

聖霊が最善のために選んでくれたと信頼しているすべて。

こころのなかのすべて。

それが全体。



その全体ために使ってください

と言うのは、すごく自然な感じがする。


じゅんこがいっていた「ひとつとしてみたい」。

オレにはそういうのはないしわからないと思っていたけど、

この「全体」、
こころにあるすべて、知覚のすべては、
聖霊が私の最善のために選んだんだと信頼したい、
というのが、

「ひとつとしてみたい」というのと同じことを意味してるように感じられてきた。


この意味での全体のために
私個人ものだと思ってきた仕事、お金、自分、人間関係すべてを与えます。


ありがとう。

今までありがとう。


この、無条件に聖霊/スピリットに差し出す信頼と、

その信頼のもとに立ち現れる「全体」のためだけに私を使ってくださいという祈り。


それを、この言葉とともに歩みたい。

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(映画DUNE|砂嵐の中のビジョン)

See the friend
See the friend

the mistery of life isn't a problem to solve
but a reality to experience

a process can not to be understood by stopping it

we must move with the flow of the process
we must join it
we must flow with it

let go
let go
let go


友に会え
友に会え

いのちとは解決されるべき問題ではなく、
経験すべきリアリティ、
それを止めて把握しようとしても理解できない「プロセス」だ。

私たちはプロセスの流れとともに動き、
それとひとつになり、
それとともに流れなければいけない。

Let go , let go , let go ....


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この言葉とともに。

私のすべてが「全体」のために使われますように🙏🙏🙏



(追記)
そういえば上の映画「DUNE」のコメンタリーを含む1月合宿映像の申し込みがまだまだ受付中です。

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