今自分に教えたいこと
兄弟と話すことで、自分が今一番自分に教えたいことがあらわに、明確になったように感じる。
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心の力をどこに注いでいるか?
表面ではいろいろな思考や言い張り、感情があるように見えるけど、
・・・結局実は、みずからすすんでムシケラに同一化している。その同一化に心の力を注いでいる。
「私ってこういうものなんだよね」
ということにしておきたい。それを維持しておきたい。
分離は、神とは異なる自分自身の願望によるのではなく
「外から私に降り掛かったこと」で、外側からの攻撃はありえる(だから私の攻撃も正当化される)、と正当化するために。
今自分が「完全な愛以外の何か」を経験してるのだとしたら、
それは自分自身がどこかのレベルで下した、神のとは違う決断の結果なのだ、
ということを、完全に知りたい、完全に受け入れたい・・という願望が必要。
その願望に心の力を与えたい。
外から降り掛かってくる「愛以外の何か」、
外から降りかかってくる「動揺の原因」なんてものは、ほんの1mmたりとも決してまったくありえないんだということ(逆にいうと、自分が何もしなければ、あるのは完全な愛だけだということ)を、本当に知りたい、受け入れたいという願望、欲求。
その願望に心の力を与えたい。
24時間365日、そのことに意識を置く。
動揺したときは特に。
その願望があって、初めて、平安へのツールも意味をなす。
自分のどんな決断と信念が、この愛ではない経験をもたらしてるのか、というところに届く。
自我の目的のために、
つまり分離と犠牲を正当化して攻撃を正当化するために自分が作ったすべて(このケンタという設定や他のキャラクター、小道具、舞台設定のすべて)も、
聖霊に全部手渡して、
聖霊の目的のために、
つまり私が真に100%、1mmも被害者ではなく、本当は何者なのか、どれだけ私たちが愛されているのかを教えてもらう目的のために、使ってもらうこともできる。
そこに自分が与えてきた意味づけとはまったく違う、聖霊による意味づけをともなったシンボルとして使ってもらうことができる。
そのことについて、聖霊への全面的な信頼を、私がまず与えることができる。その力は私にある。
本当に、
自分の過去の目的に沿った、
自分独自の意味付けから世界のすべてを解き放って、あらゆるものについての自分による定義を手放して、聖霊に使ってもらうことができる。
全面的に。
そしてそのときは、自分の新しい決断・願望をもって、聖霊に「このために使ってください」とはっきりお願いする。
「私が自我を信じてつくった、苦しみの原因にしか見えないこの同じものを使って、私たちが何者なのか、私たちがどれだけ愛されているかを教えてください。
そのためにこれらを使ってください。」
「自分独自の意味づけのすべてを手放させてください。あなたの意図を、あなたの愛を、私がいかに愛されているかを、これらを使って教えてください。」
この祈りを自分に許可することは、何かが決壊してしまうような感覚をおぼえる。
それくらい、私は「自分がいかに愛されているか」を教えられるのを、許可できないもの、許せないものとしてきたのか。
私独自の世界を維持するために。
自分の今までの五心円の中心の願望信念思考からすると、「都合のわるいこと」だったのだな。
過去のフランセスのfacebook投稿をメモしていたもの。
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