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鍵をまわす

今日のミーティングで
まーちゃんが見せてくれたこと、
のりこさん、ラファエルが話してくれたこと、
とてもありがたかった。


まーちゃんの見せてくれた例。

「私とはこの肉体で、こういう制限がある」
この肉体がこうなんだから、私には制限がある。私は無限ではない。
この肉体がこうなんだから、私は無限の存在ではなく、私には暗い感情がある。

つまり、

【自分が無限の神の子ではないこと】
(=神はいなくて、私の暗い感情はある)

を正当化するために、

この知覚されたシチュエーション
(世界があって、肉体としての私があって、その肉体に不具合や痛みがあって、、)
を使う。

この正当化のループをえんえんと繰り返している。



まーちゃんが
正当化のループを繰り返すために
肉体とその痛みを使う例を見せてくれたおかげで、

自分の場合はどうなのか、というのを見させてもらえた。

自分の場合は、
「俺には女がいない」
「カープが負ける」
というのをずーっとえんえんと使いながら
同じループを繰り返している。


なんか幸せではない感じ、欠乏感がずっとあったり、

カープが負けたとき(とくに今夜のようなひどい負け方のとき)に感じる、
「(何かはわからんけど)やっちまった!!!」という罪の感じ、
絶望感、
被害者意識、
怒りや攻撃性。

そういう感情は、
これ(「俺には女がいない」「カープが負ける」)のせいなんだ、
だからこれについて悩むこと、なんとかしようとすることが、
俺が心のエネルギーを注ぐべきことなんだ、

という正当化のループをえんえんと繰り返している。

そうすることで、
ずっと下に持ち続けている生の感情のほうに向き合うことがない。

ずっと水平方向の知覚の方だけを見て、
その方向に心のエネルギーを注ぎ続けている。


こういうループを繰り返すなかで、
大きな制限や限界、いやな感情にぶちあたったときが、
正当化のループから出るためのチャンスらしい。

合宿でのりこさんが言っていた、
このループから出るための鍵をあたえられた状態。


そこで、じゃあどうやってその鍵をまわすのか。

どうやって正当化のループをやめるのか。



今日のミーティングのなかでのりこさんの口から出てきた言葉。

そこで、(「これが原因だ!」と外を指差して言い張る正当化のループにはまるのを踏ん張って)

「いや、わたしは神聖なる神の子です。」

と、宣言する、
自分に教える、

ということ。

「この肉体の状態が、私が制限を感じる原因ではありません」
「この知覚が、私がこのいやな感情を感じる原因ではありません」

と。


私は神聖なる神の子。

つまり、神しかいない。
神と神聖なる神の子である私しかいない。

だから、この今感じてる制限や嫌な感情も、
神とわたしとの関係のなかで
感じられているものでしかありえない。(他に原因はない)


だから今現在どんな嫌な感情や制限を感じていようと、

「いや、私は神聖なる神の子です」

と宣言することで、
この嫌な感情の真の原因である「神との関係」の方に自分を向かせる。


たとえ今リアルタイムで
制限や嫌な感情しか感じられていないとしても、
知覚を利用してそれらを正当化をしようとするのを踏ん張って、

「私は神聖なる神の子です。」

と宣言する。

嫌な感情や制限を引き連れたままで。

これが鍵をまわすことなのだと感じた。



嫌な感情や制限しか感じてないかもしれない。

でもそんな真っ只中でも「私は神聖なる神の子です」ということは、

その嫌な感情や制限も
神との関係性のなかで感じてるものでしかない、
ということを受け入れる宣言になる。

自分にとっての神との関係性のなかに、
この嫌な感情の真の原因があることを受け入れること。
知覚を使って正当化しようとするのではなく。


そしてその感情の原因について、
神との関係性のなかで、
それが本当は何なのか、
真実はなんなのか、
【最終的な結論】を教えてもらえるのはここしかないんだと、受け入れること。

その覚悟をもって、
出てくるひどい感情を出てくるままに許可し続けながら、
「私は神聖なる神の子です」と言うこと。

そして実際に【最終的な答え】を受け入れる覚悟をもつこと。



コースを知ってから、
「私は神聖なる神の子です」みたいな言葉には、ずっと、
はるか遠くの絵空事のようなイメージをもっていた。

何か、ほぼほぼ癒やされた結果、初めて意味をもつようになる言葉、みたいな。

今こんな状態の自分がこの言葉を言っても、何も意味がない、みたいな。

でもそうじゃなかった。

本当に限界しか感じられないようなとき、
絶望感や憎しみや怒り、罪悪感や欠乏感に触れているときにこそ、
覚悟をもって言う必要がある言葉だった。

知覚を使ってそれらの感情を正当化するループ、
同じことの繰り返しを止めるために。

そのひどい感情を感じている真の原因の方へ、顔を向けるために。


そのあとは、
でてくる感情をでてくるままに、何のコントロールもしようとしないまま、
でてくるままに感じるしかない。

それは神聖な神の子である自分が信じたことの結果だから。


そしてたずねる。

本当のところはどうなのか。

こんな感情を感じるようなひどいことを、
わたしは本当にやっちまったのか。


「私は神聖なる神の子です」
という言葉は、
かつて抱いてたイメージのような
綺麗事、絵空事的な言葉じゃなく、

泥にまみれながら、
その真っ只中で、
嫌な感情を引き連れたまま、
真の原因へと私の心を向け直すための覚悟の言葉だった。

制限や嫌な感情を感じてる真っ只中で、
まわりや自分を指差して攻撃して正当化したい衝動がある中で、
この言葉を本気で言うのには、
覚悟がいる。

その覚悟を、24時間365日持ちたい。

ガイダンスというのは
このような中で聞くものなのかな、という感じもしてきた。



本当のことを教えてもらうのに、
1%でも「知覚を使った正当化ループ」を繰り返してたら
本当のことを教えてもらう方向を向けないし、
その答えを受け取れない。

だから自分が感じているものに触れながら、

「私は神聖なる神の子です」
「この感じていることの原因は知覚にはありません」
「本当の原因の方に向き合います」

と自分に教える勇気と覚悟を24時間365日もちたい。


ありがとうございます🔥🔥🔥🙏🔥🙏🔥🙏🔥🔥🔥





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