どんな些細な感覚でもいいから「わたし」を確立したい、という隠された野望

映画「オデッセイ」

のりこコメンタリー。

映画前半のマーク。
どんなに些細で微妙なものでも、「このわたし」を確立したいという言動のずっと下には、神をうらぎったという巨大な恐怖と罪悪感がある。

この世界での具体的な言動を観察すればわかる。

この世界で私が採用している思考システムの働き方を見ればわかる。

その巨大な恐怖と罪悪感を見ないまま、それを隠し、打ち消し、否定しようと、絶望的な努力を続けている。


映画をとおして、私の心がどのように動いて働いてるのかを見ることができるようになる。

これが「マインドウォッチャー」っていう意味か。


私が今回のような献身滞在の場において、まわりの人のことが見えないというかどうでもいいと思っているのは、こういう「わたしを確立する」ことに囚われていてそれにしか興味がないみたいになってることが原因だったような感じがしている。

ぜんぜん捧げていない部分。








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