預言カフェ

この前、1ヶ月ぶり二度目の預言カフェに行ってきた。


話された言葉がマスク越しでこもって聞き取りづらく、
実際聞き取れない言葉もいくつかあったので
お会計のときにそのことを伝えた。

これだけの献身をされているのに
それにクレームをつけることについて罪悪感を感じた。

そのときの自分の心をみると、
「お前らのせいでちゃんとメッセージ受け取れんやんけ」
「マスクなんて意味のない対策するからこんなことになるんやんけ」
という攻撃を正当化したいという思いがあった。

でもいただいた預言の内容はこれ以上ないほど今必要なものだった。

本当に神・聖霊は一緒にいて、見てくれてるらしい。。。。と感じさせてもらえる。

自分が感じたイチャモン・不満の根っこについてはまだ癒やされてないと感じるけど、

カフェの方たちの献身に感謝します。

あのイチャモンの根っこの部分・信念までが光にさらされて、浄化され癒やされることを望みます。


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私はあなたを愛しています、と主は言われます。

まるで子守唄を言い聞かせるみたいに、一生懸命こう自分に言い聞かせるみたいに、

息子よ、わたしが、あなたをなぐさめる

自分で自分をよくしよう、がんばろう、じゃなくて
もっともっと私に近づいてくださいね

と主は言われます。

「もっと良い子になったら、たくさんの祝福を受けられる」
そうじゃなくて、
私の恵みが先に
まずは私の愛が先にあなたを愛し、あなたを形づくったよ。


だから息子よ
「いつかこんなふうになったら僕はこうなる」ではなくて
今、私の手の中でよろこび踊る。

あなたは私のものである、と主は言われます。


私に従ってきた、歩んできたこれまでの歩みは本当によかったけれど、
息子よ、
もっともっと自分自身であることを楽しみながら
それを歩む。


人から見られてどう言われたか、どうだったかという
ここに重点というか
役割があなたをなんかこう堰き止めるというか、
分断するものではなくて

あなたは私のものですよ、と主は言われます。


形にとらわれて
むしろテレビの向こうで演説している人みたいに
なんかどこかで誰かがそう言ってたみたいな

そうではなくて、
あなたが本当に私のもの。


親密なその愛の感じのなかで
本当に私のよさをもっともっと味わって
たのしんでいけるように

私からあなたのこころに
新しい灯火を灯す。


まるでこう荒れ地に川を、
砂漠に泉を、
その飢え乾いていたそのこころに一筋の光を
注いでいくように。

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わたしは神のもの。

何が「神のよさ」なんか、まったくわかってないけど
(わたしは何が自分のよろこびなのかさえまったくわかってない・・だから尋ねて求めるしかない・・)

神のよさをもっともっと味わって

たのしんでいけますように🔥🙏🔥


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