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やってられないよー

やってられないよー

やってられない!
と叫ぶことありませんか?
ありますよね
っていきなり同意を求めちゃいました(^^;)

実際、話し合いをして進めていたプロジェクト
「〇〇を目指しましょう!」といっていたのに
やることに追われてやることを
「済ませる」事が目標になっていたり

特に「リアルなものを作り上げる」といった目に見えるものではない場合

「活動」を作り上げようとしているときは
なおのことある意味「空想」の世界だから
微妙に到達点やかかわり方が違っていて
「違っていていい!」とおもうか
「ここは揃えたい!」とおもうか

社会的規範みたいなところの思っている感覚の違いで
「いさかい」が起こる

なんとも、はや‥

それが進みすれ違いレベルだった意識の違いが
「感情」のレベルに到達すると

「だからあの人は」
「やっぱり考え方が違う」

っていう戦いが起こってくるんだよね

そしてその戦いに巻き込まれたり
当事者になったとき、こんなにやってきたのに
ここまでやったのに、こんなこと言われて
こんな態度取られて

「やってられない!」

ってなっちゃう。なっちゃった自分にも腹が立ったり
どうしていいかわからないモヤモヤとの戦いがやってくる

つらいなあ

実は先日「そんな時どうしてる?」って問いをもらった
その時にうまくいえなかったなあと心残りがあって書いてみることにした

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〇「こうしてほしい」は「つらい」の裏返し

「やってられないよー」

この思いの奥底には「こうしてほしい。こうしたい。」
という「願い」が根底にある気がする

私だけではないだろうと思うが、私の価値観は私の体験から生み出されている

そして私の性格や行動パターンから体験は生み出されている

3人の子育てをしてみて、
ほんとに生まれながらの思考パターンというか性格というか個体差は確実にあると感じている

生まれたての新生児の時から、おっぱいの求め方も違う!んだよね

生まれた時から人は違うんです!

でも、気持ちを通わせた人はどこかで人は自分に同化させていってしまう
そこでこの諍いがおこってしまうのだと頭ではわかっているんです

私も!

だ・け・ど
心がついて行かないんですよねーなんだか

特に物事がうまくいって
自分に共感してくれる人が近くにたくさんいると
そうでない方の
そう動かない方へのいらだちが強くなる
「バカヤロー!」と叫びたくなる
突発的に動きたくなる

何を大切にしてるんだーと


でもこのいらだちも同じような想いの方とつながることで癒される
だから、同じような方々と一緒にいる事が多くなる
そして異質なものとの距離を保つことができる
そうしている間に根本にある考え方からの振り返りで
相手を理解することができるようになる…こともある

そうやって乗り越えてきたことは山ほどある気がする

「やってられない」を乗り越えるとき
仲間がいるって本当に大事だよね

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〇今まで指導してきたのだから

ただもっとつらいのは一人でそれを抱えるとき
想いが違うことで起こった負のエネルギーを
一人で抱えざるを得ないとき
つらさでどうにもならなくなったときの

「やってられない!」は危うい

例えば、替えがきかないポジションにいるとき
「やってられない!」と思っても
「やらなきゃいけない」ことが目の前にある時

我慢、自分を抑え込む
先が見えなくなる
自分が悪いのかと自分の価値観を疑うようになる

ほんといいことない

この経験をしたのは2回

初めての子育てと
地域包括の立ち上げの時(この時の苦労は前も書いたので下記参照)

https://note.com/phnnose/n/n60ed67e56824

子育ての時は新米ママの私が保健師の私というプライドに押さえつけられていた

今まで学習と努力でなんとかしていた経験が強かった私は子育てでも学習と努力で何とかなるっておもった

ちゃんと育児休暇をとって子育てに挑む姿勢でいた

ところがである
私と彼女(こども)は違う「人」なのだ

どれだけ私が努力しようが学習しようが
彼女のスタンスは変わらない

夜泣きするしハイハイも遅い

しかもだんな様は
まったくスタンスが変わらず
学習も努力もしない

よくいえば自然体、悪くいえばマイペース

私だけが空回りなのである

「やってられない!」

でも「私は保健師さん。こんな時に相談を受ける人」
「わかっているでしょ」と言われそうで誰にも言えない

そつなく過ごしてることを装う

今思えば馬鹿です。

一言「しんどいよー」

「ひとりになりたいよー」

「私も遊びたいよー」

「いうこと聞いてくれなくて歯がゆいよー」

といえばよかったことなんです

でも言えなかった…

おまけにこの子はおっぱいしか飲まない
哺乳瓶大嫌い
距離をおきたくてもおけなかった。

空間を切り離せない…

目の前にいることで思考を切り替えられない

追い詰められた

彼女を嫌いになりかけた

哺乳瓶使えないとこんなにつらいんだとしり、母乳育児を推進してきた自分を恨んだ(なんてこと!と言われそうだけど)

ここまでくると自分の価値観が崩壊していった

実は隠れ産後うつだったかもしれないと思うほど…


何もかも私の至らなさがこの夜泣きにつながっているようで毎晩私も泣いていた

でもそこから這い上がってこれたのは…

実は最初はわずかではあったけど
子どもと離れる時間と
自分がいたわられる時間だった

髪を切りに行った美容室
新しくできた気になるところに行ってみた
だあれも私を知らない世界で
話を聞きながら気持ちよくしてもらい
きれいにしてもらい労わってもらった

本当に心地よくて心がうるおった

マッサージもだんな様が進めてくれていってみた

そこで気づいたのは
私が私を大切にしていなかったこと
自分にご褒美をあげることより
家族を大事にすることが私の中での美徳になっていた
「〇〇あらねばならない…」

学習と努力による対価を求める心がプライドが私を縛っていたのだ


そしてちょっとずつ本音を話すようにした

「こんな私でもいいじゃん」とおもって

「私保健師してるけど児童虐待しそうになるお母さんの気持ちがわかる!」
熱を出して連れて行った病院の看護師さんにカミングアウトした瞬間
「だよねー」と看護師さんが話し出した

「私もだったよ」
「こんなしごとしてるとさ、なかなか言えないからつらいよね」

なんだそうだったのか
みんなそうなのか

そこでやっと心から
娘と夫に「イライラお母さんでごめんなさい」が言えた
「でもそれだけしんどいの。わかってほしい。お母さんもいいお母さんでいたいけどできないの」が言えた

子育ては母親にとって自分の評価を受けているようで揺れる

でも子どもと私は違うので
子どもが成人しようとする今でも思うようにはいかない

「やってられない!」も今もやっぱりある

私の場合、「やってられないよー」を口にする事で「願い」を伝え状況を共有して、仲間とつながり、なんとか、かんとか、乗り越えて来れている気がする

子育てだけでなく、親子関係も夫婦関係も仕事も

とことんまで凹んだ後に光が見えたときつぶやけるのが

「やってられないよー」

なんだと思う

そしてそこから
「助けてをいえる自分になろう」
「ごめんなさいをいえる自分になろう」
「よりよくしたいと思っている自分をほめてあげよう」

という追試で理解できたみたいな思いが湧いてくる

何もかも「赤点ギリギリ」

でもそれでいい

カリスマみたいに言われるけど、こうやってかいてみるとカリスマなんかじゃなくて泥臭く生きてるだけだとわかるだろうし、とりあえずやらない方がやるより辛いのが私の特性で、赤点ギリギリに変わりない(^^)

その私が保健師していることで、私が看護師さんに救われたように救われるママもいるだろう

生きることに寄り添う仕事を私はやってきたいのだから


ポンコツくらいが丁度いい

そこから生きることが楽なった


「やってらんない!」の経験は

私にとって大事な経験だったと今はいえる。

この先はまだわからないけどね

結局仕事もプライベートも私は私で

つながっているんだよね。

そのままの私でそれでいい。

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