杉野希妃『欲動』からの連想(私的メモ)

本作の舞台はインドネシアのバリです。映画を観ながら、私はいくつかの映画を思い出しました。一つ目は河瀬直美の『二つ目の窓』。セックスシーンの使われ方が似ています。二つ目は濱口竜介の『寝ても覚めても』。2組のカップルが登場するという役の構図はもちろんのこと、「愛する人の喪失」というモチーフが似ています。三つ目は深田晃司監督の『海を駆ける』。同じインドネシアのスマトラ島が舞台であり、共通した世界観の元で展開される儀礼や祝祭があります。本作を含めたこれら三つの映画には共通する特徴がいくつかあります。

まず、タイトルの『欲動』からはすぐさまフロイトを想起します。哲学においては「欲望」と「欲求」を区別するという発想がありますが、精神分析学の立場を踏まえればこれはナンセンスです。人間にとって核となるのは「欲動」の次元の問題であり、「欲望」と「欲求」の区別などはせいぜい頭の中でのみ築き上げられるような代物に過ぎないからです。当然のことながら、本作の主題は「欲動」なのでweb記事が注目しているような「大胆な性描写」は本質的なところでは全くありません。

タイトルに関連して、映画を観ながら連想した言葉遊びがあります。「欲動→情動→欲情」という連想です。くだらない言葉遊びではありますが、「なるほどな」と思いました。「欲情」には「動」が欠けているわけです。ゆえに、「欲情」を通じた一連のコミュニケーションは記号操作の域を出ず、予定調和に満ち満ちた自己確証的な快楽だけを生み、予定調和から逸脱し続ける自己破壊的な享楽には至り得ません。

とはいえ、私たちの多くは快楽の外に出ることはとても困難です。なぜなら、それは言語の外に出るということだからです。都市文明を生きている限り、私たちは言語を用いることからは逃れられません。それに、言語の外に出るということは、表面的な言語運用の問題というわけでもなく、単に言語から遠ざかれば良いということでも無いのです。現に、いくら旅に出ても、居場所を見つけられない旅人はたくさんいます。哲学が上記のような区別をしてしまう所為です。

しかし、その困難さゆえに生まれ得る逆説的な享楽、快楽内享楽とでも言うべきような、倒錯化された快楽は十分にあり得るので一概には言えません。スワッピングを通じて「愛」を確かめ合う夫婦は現にいますし、複数の人間との恋愛を生き方のレベルで肯定するポリアモリーの男女も現にいます。ノンケであるにも関わらず、私が異性愛中心主義に違和感を抱き、自らのセクシャリティを問い直さざるを得ない背景はここにあります(が、現時点ではせいぜいタネを蒔いた程度です)。

ですので、友愛にせよ恋愛にせよ性愛せよ、上記のような複雑性を備えた快楽の多層性を問題化すること無しに、本質的な意味での「愛」を描くことはできないと私は思うのです。本作を含めた上述した三つの作品はそのことに成功している映画であり、その点において共通していると言えるのではないかと思います。

具体的なところで言えば、脚本上決定的なシーンにおいてはほぼ必ず長回しが使われていてメリハリが上手く効いています。セックスシーンも5分弱あったのでは…というくらいでしたし、コーヒーを淹れるというシーンでも3分くらいの時間が使われていたような気がします。これは10年代の日本映画ではかなり稀有なことではないかと思います。新海誠のハイテンポなシーン展開が典型ですが、昨今の日本映画のスピード感覚は加速し続けていますから。

個人的にもこういうのってほんとに大事だと思うのですよね。「ていねいにやること」の凄まじさを舐めてはなりません。それはすなわち「静」の中に「動」を見出すという作法であり、これができなければ「動」の中に「静」を見出すことはできません。逆もまた然りですけれど、時間に追われて生活している都市生活者にとっては前者の方が分かりやすい取っかかりだと思います。私の場合、小さなスプーンを使って30分かけてかき氷を食べた経験が「ていねいにやること」の凄まじさに気がついたきっかけでした。鎌倉の日本茶屋でのことでした。

欧米には「スローフード運動」ってのがありましたけれど、日本だとこういうのって民芸の世界とかの方が強いような気がします。あとは武道や舞踏辺りでしょうか。儀礼や祝祭という奥行きのある次元に触れるということとなれば、漁師や猟師辺りにも注目したいところです。

それこそ、石巻で訪れた鮎川は捕鯨で有名なところでしたし、小積では震災の影響によって増加した鹿の駆除が行われていて、小積エリアのアートのテーマは「鹿に導かれ、私たちを見るとき」でした。そこでは、鹿の視座を通じて私たち人間を捉え返すということが目指されていたわけです。これこそまさに垂直性の問題です。垂直的な問題解決の手がかりは、生死を賭けて行われるような取り組みの中にこそ宿っているのです。

noteでのメディア活動は、採算を取れるかどうかに関わらず継続していくつもりです。これからもたくさん記事を掲載していきますので、ご期待下さい。