みんなで考える必要はない、みんなを考えればよい話だ。

前者は結局みんなのせいにして考えることから逃げている。みんなが参加することなど不可能だ。だからこそそのような逃げが可能となる。

参加してくれない彼らが持つ可能性を考慮に入れることができるなら、彼らが参加しなければならない理由はない。

多様性という言葉もバカの一つ覚えのようによく唱えられているが、それは、お好きにどうぞという消極的な姿勢ではなく、検討すべき可能性の見落としを防ぐという積極的な姿勢であるべきだ。

濁った流れを行くときは誰だって杖が必要なのだ。

その上でそれでも私は言いたい、方舟を造らなければならないと。

みんながそれぞれに方舟を持つことで生産関係を突き崩す、それこそが必要なことなのだ。

窮屈な世界ではヒトは感情という名の断熱材を纏い、情報という名の熱を遮ってしまうものなのだ。

文句を言うしか能のないような環境活動家に任せていては何も解決しない。

『愛するという..』技術を持つ人、自然環境を大切に思う人ならば、方舟さえ持っていれば、経済活動によって、ありとあらゆる環境を破壊しようとなどしない。

自然の対義語が人工である以上、自然を保護することは自然から人を隔離することであり、その意味でも自己完結的な方舟システムは必要なのである。

彼らを考慮に入れた上で、それでも私の方舟には家畜も魚も居ない、コオロギもユーグレナも居ない。タンパク質も糖質もないユーグレナでなぜ飢餓など防げよう。

小麦がダメなら交差抗原性で他の麦もダメ、でも他のイネ科なら大丈夫かも。基底の選び方自体はいくつかある。要はその世界を張れれば良い。(現実の物は従属ベクトルなのだけど。)

局所的豪雨、糖質だけの畑にタンパク質だけの畑…、コンパニオンプランツ…、ネイティブ・アメリカンの伝統的農法…。

植物にも水は要る、栄養塩類が流出する、どうやってトラップするか、『森が消えれば海も死ぬ』二枚貝は必要だ、沈水性の水草も、そして水にわくボウフラを処理するカブトエビ…。土壌とは砂礫ではない、岩に生えることができるのはコケぐらいなものだ、有機物さえ蓄積されれば、コケや腐葉土だけでも植物は生えることぐらいはできる、むしろその方が軽くて力が少なくて済む、底面給水なら手間も少ない。生命の歴史を省みることが必要だ…。その上で可能ならばショートカットも…。

ひれ(オール)vsスクリュー、車輪生物は存在しない、『ゾウの時間ネズミの時間』…。

彼岸と此岸を隔てているのはなぜ川なのか。川でだけ有効な渡る手段が舟なのだ。崖ならば橋でも良い。

自立的に動けることこそ理想的な世界に渡れる条件なのである。

悟りに幸あれ。

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