年年齋齋花相似
時間に負けている。
口にするとふしぎな響きをもつ言葉だけれど、ぼんやりとそのように感じることが多くなった。いつからだろう。
タイに住みだした最初の半年はまったく違った。今年になってからも周辺各国への滞在前後や、お寺に篭るあいだは感じていなかった。慣れない土地や環境の下では自分の感覚が、自然と外界へ向かうからなのか。だとすれば「時間に負けている」と感覚されることそのものが、なじみある事物にとり囲まれた暮らしに降りてあることの、ひとつの明かしとも言えるのか。
先週までの半月ほどを、気づけばほとんど白米と豆乳だけで過ごしていた。日本から持ってきたお茶漬けやふりかけ、即席みそ汁の類で舌をごまかしながら、空腹感は様々に味のついた豆乳で紛らわせるうちに、日付だけがどんどん更新されていく。音無しの。
それでも仕事なり生活上の雑事なりは淡々とこなすし、ふしぎとツイッターやらnoteやらの自身のアカウントも日々アップデートされていく。惰性のふしぎ。いったい誰が、と首をかしげる。なんのために、こんなことを。あらためて考えてみるならさて、そこには確からしさがどうにもない。感じられない。「かんじられない」と、これら七文字を打ち込む欲望の。
魚は海原に生える草だとか。ジャイナ教からヴィーガンまで、さまざまな形態と振れ幅をもつ菜食主義の実底には、思想や信条よりもずっと前の身体レベルでごくシンプルに、肉を採り込む営みの総体が面倒に感じられるから、ということはないのだろうか。この夏先まで足繁く通った行きつけのカオマンガイ屋の蒸された鶏肉を、先日ひさしぶりに食べてみた。味は変わらず旨いのだが、頬張りながらかつて感じたことのない過剰さのほうが優りはじめて、どういうことだと食べかけの皿を見つめながら考えこんだ。道端の食卓で、雑踏の傍らで。人間は考える葦だとか。
しかし一方で、惰性により踏み入れる映画館の暗がりで、習慣化して頬張られるバーガーキングやサブウェイなどの肉についてはとりたてて変わりを感じていないのだから、ここにはなにかしらの嘘もたぶん混じり込んでいる。皿のうえの蒸された鶏皮の照かる脂身が、行き交う車輌のライトを映しかえして微細に震える。意識はされない、なにがしかの極私的な事情やら目的やらがこれら惰性と習慣とを支え、これら惰性と習慣の束がこの日々をこの日々として成形し、毎瞬間ごと上滑りし横滑りするこの思考回路へ当面の擬似肯定と自己承認とを配給する。痙攣し、連打されてやまない《いいね!》の群体。薄皮一枚ひき剥がすならきっとそこに覗くのは、引き攣ってあとは弛緩を待つのみの。表情筋の躍動の、果てなくひしめくにくのはら。
たとえば表音文字を基本とするタイ語には、日本語の《か》行や《さ》行、《ぱ》行にあたる子音字がそれぞれ四つずつ存在し、《た》行に至っては実に八種存在する。どうしてこうなった。しかもその一つ一つが長短多重省略変化あわせて二十を超える母音字ないし母音記号と結びつき、各組み合わせが無表記を含む五種の声調記号により使い分けられる。しばらく日常会話に耳を馴染ませるかぎりでは、タイ語は他言語に比べてそう難しいとも思えない。しかしごくわずかにしてもこの沃野の内へと足を踏み入れてみるならば、外見とは裏腹な異次元の多層迷宮にまみえる心地。
この複雑さの因子をたぐるなら、それは現代タイ語の成立過程で呑み込まれてきた地域ごとの似て非なる言の葉たちの残響が、いまなお言語構造や表記体系のそこかしこに息づいているからだ、ということになる。タイ語入門書の類ではこうした説明が省かれる。時遷的な了解により学習の進む人間は少数派なのかもしれない。
ゐやヰやゑやヱたちが十全と発言権をもつ豊饒さを想像してと請うならば、こうした事態の把握に幾らかは資するだろうか。言葉が言葉になる隘路。やがて言葉は石になる。石は流れを峻別し、飛び石を跳び人は土になる。個体発生は系統発生をくりかえす。文字の学びがまた別様の時間経路のインストールに等しいということの。探索され、遡行される沃野としてのことのはら。
前回は1832年だったらしい。
旧暦と太陽暦との調整上、今年は旧暦の九月が二度やってくる。どうしてある年は閏一月となり、ある年は閏九月となるのかはよくわからない。《齋(เจ ジェー)》と呼ばれる華僑由来の一時菜食の風習は、毎年陰暦の九月一日より始まる。つまり今年は《齋》も二度やって来る。百八十二年ぶりの事態。
中秋につづいて食にまつわるこの行事のあいだ、バンコクでは商店や飲食店を中心に街のそこかしこが黄地に赤字の《齋》を描いた意匠で彩られる。華僑のバイタリティやタイ社会への浸透力を感じられる光景だけれど、九日九晩つづくこの風習を二度くりかえす気になるひとはどうもかなり少ないらしい。
次回の陰暦閏九月は2109年。
などと書きつらねるなら、《齋》に併せて自分も素食を試みているように読めるからすごい。意識できる範囲で言うならただの偶然。けれども去年すでにこの風習を見聞してはいたのだから、不可視の底でなにかが揺らめき、己を駆りたてていなかったとはもちろん言えない。
そうしてこれら欲望のうまれるところ。いまここに形を与える志向性。報いといざない、行為されるイメージのもつ偏光性。世界を映しだす認識という定点の。内身に描かれゆく力動の輪郭線、この身体器官への憑依感覚。一人称へ統合される寸前の、際限なく乱反射をくりかえす鏡の迷宮のただなかで、ただひたすらに光への叛逆を夢にみている。だけなのか。
รบกวนเวลานานมากแล้ว ขอจบเพียงเท่านี้ครับ ขอบคุณมากครับ
二度目の陰暦九月の月は今夜、鋭利な三日月へとすでに成長を遂げている。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?