週次報告12(シナリオが繊細であることへのいち思考)

TRPG、マーダーミステリーなどのシナリオ系ゲームにおける物語のセンシティブさ――場合によっては「地雷」などとも称されるもの――の話題が立て続けに耳に入りました。外の情報に触れる機会が少ないので、頻発しているのかどうかはわかりませんが。そのため、ここ1週間くらい「TRPGシナリオのセンシティブさ」ということを、実際に「センシティブ」と称されるシナリオを体験しながら考えていました。で、センシティブさとは、いち演出手法に付随する副作用ではないか、と考えました。

まず「センシティブ」ってつまり何さ? というところからなのですが、要は「現実の事象への、作品側の過干渉」と捉えています。干渉の対象は大別すれば ①政治 ②内心 で、差別や災害、戦争など被害のあった事象で政治的に難儀するものであるとか、プレイヤーその人や近しい存在が精神を脅かされうる事象(犯罪被害など)を扱っているか、おおよそどちらかに分類できると思われます。

物語は当然ながら虚構ですから、没入感を感じさせようとすれば、リアリティを向上させる必要があります。例えばその際に現実に存在する要素(史実・人物・団体など)を盛り込むということは、受け手に物語を「現実の延長」として認識させることができ、これはリアリティを向上させられる手段として用いられます。これがメジャーな手法であることは検証するまでもないことだと思います。

プレイヤーは没入感を物語に求め、クリエイターはこの手法を用いてリアリティを物語に付与する。この流れは「いつから」と論ずるまでもなく、普遍的なサイクルであったことでしょう。
(もちろんリアリティの向上手段はこれに限りませんが、論とは関係のないことなので措きます)

このようにして虚構と現実の境界を曖昧にすること、「現実の、虚構への引用」を、プレイヤーが称揚しているわけです(でなければ手法がメジャー足りえません)。その結果、現実に存在する要素を織り込んだ作品が増え、リアリティの平均値が伸び……より強いリアリティが求められ、扱われる要素が「威力」の高いものになっていった、ということではないかと。

これは史実などに限らず、内心への干渉にも同じことが言えます。とりわけ「エモい」と称されるシナリオでは、呼称が示す通りヒューマンドラマの要素が多くなりますから、据えられるテーマは個人の心境に寄っていきます。
いびつな(「完璧でない」という意味です)キャラクターが欠けた部分を手に入れる/取り戻すことが物語であるとすれば、その欠落のリアリティに「センシティブ」な要素を用いることは、シナリオの質に確かな効力を発揮することでしょう。その要素が一定数のプレイヤーにとって「地雷」と称されることと引き換えにしても、です。

シナリオにおいて政治にしろ内心にしろ、現実が干渉された結果「センシティブ」と判断されるのは、プレイヤーが総体として体験の向上を望んだ副作用である、ということです。「良いシナリオをやりたい」という思いが淵源である。

副作用を回避したい場合は、目的=体験の向上を諦めるか、手段=現実への干渉を諦めるかのどちらかになるでしょう。前者の択はもはや採れないと思いますが、後者はそもそも現実への干渉はいち手段に過ぎませんから、十分に可能であると思われます(経験値と再学習コストあたりの話だと思います)。もちろん、別の手段にも何かしらの副作用が存在しますから、そこは比較衡量の問題です。何事も美味しい部分だけ頂くというのは非常に難しいことです。

ちなみに自分の場合は、副作用は望んだことの片鱗だと割り切って作品に臨んでいます。地雷を踏んだら選択と欲望の対価だと思って自死します。それだけです。幸いにしてセンシティブとされる要素に「地雷感」を持ったことはほぼないので、運のよい意見だという見方も、もちろんありますが。

以上の路線とは全く別に、自分の中には「感情の尊重と自由」という観点から「センシティブ」が拡張されている……という見方もありますが、話が別の方向にも大きくなっていくので、ひとまずはこの程度にしておきます。

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