週次報告11

最近、ニュースから波及するTwitterの潮流に辛さを感じることが多くありました。その結果、以前から意図的にSNSに触れる時間を減らしていたことに加えて、さらに通常のタイムラインも不可視化しました。フォロー/フォロワーよりももっと狭い、リストの中だけで完結させるようにしています。

何かひとつの物事が世間に投下されるに際し、その反応として発露されている攻撃性が長く大きくなっていることを感じていて、疲れを自覚しました。
この疲労は自分の望むところではないなと判断し、趣味へのコミットに労力を偏らせるほうがいいなと。この方針はうまくいっていて、直近ではいやな疲れ方をしないで済んでいます。

SNSといえば、何か(作品でも事件でも)を観測した結果として素敵な筆致で流麗に書かれた「感想」が、その素晴らしさゆえにRT等で流れてくることが珍しくありません。最近、その有害性を強く懸念するようになりました。
有害性というのは、自分の中の心の動きや事物への理解が未整理のままでそういった「完成品」に触れることで、感覚を鍛える/維持する/砥ぐ機会を逸してしまう可能性をいいます。

優れた感想はもっともらしく、着眼点もよく、きれいな言語化がなされています。そのきれいさゆえに、自分の認識を便乗させたくなります。こんなに優れた感想を、自分は持っているんだと錯覚します。
「共感する前に、まず感じましょう、それを自分で整理しましょう」……そういった意識を高めていきたい次第です。同一化の果てに何も言えなくなることは、たいへん恐ろしいことです。

いわゆる「ネタバレ」よりも、この「未整理状態での他者感想の検出→同一化」の方がよっぽど怖いですね(元々ネタバレでそんなにダメージ受けないのはありますが)。失われるものを比較したときに後者の方が自分にとって価値があるためです。流れてくる情報の中からこれでいいかと自分の認識を「それだったことにする」のではなく、いったん自分で形にしたあとで、自分の認識と比較してああなるほど、と膝を打ちたいのです。

潮流も、感想も、タイムラインに流れてくる感想が目に入るのは自己責任ですから、取る手段は自ずと自衛=見ないとなり……そうしてSNSからはどんどん離れていくわけです。うまい付き合い方を確立したい。

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