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真面目の才能

カタツムリがのろのろと茄子を食べる動画をTwitterのタイムラインに見て、ふと、カタツムリは何年くらい生きるんだろう、と思った。
調べたら、大きい奴は十年以上生きるのだそう。あの体長で十年生きるってのはすごい。
ハツカネズミは一年で死に、カタツムリは十年生きる。うちの飼い鳥は今年で十年目くらいで、私は二十九年目。祖母は、この前の桜が満開の満月の夜に93歳で亡くなった。寿命は呼吸数だと思う。生き物が生涯にする呼吸数はみんな同じに決まっていて、ただどれくらいの速さでそれを終わらすかが寿命。「いきいそぐ」という言葉があるけれど、あれは「生き急ぐ」だし、「息急ぐ」でもあるわけで。ゆっくり呼吸をすれば長く生きれる。小さなからだの祖母の呼吸は、そういえばとてもゆっくりだった。

真面目だけが取り柄なんで、というには私はあまりに怠け者なんだけど、でもやっぱり私は物事を真面目にやる才能がある。几帳面ではなく、器用でも優秀でもなく、真面目。不真面目さ、というのは他人に迷惑をかけることだと思う。自分が不真面目にやった部分は必ず、誰かが補わなければならない。人様に迷惑をかける「不真面目さ」というのは私の信条に反する行為だ。学業、部活や行事、習い事、放課後の教室掃除に至るまで、一所懸命かどうかは別にして、私はサボることは一度もしなかったし、途中でやめたこともなかった。サボりが原因で怒られて、時間や体力を消耗するのも、あまり好きではなかった。それはつまり、「真面目」の才能があったってことなんだと思う。

4月に思わぬ人災に巻き込まれ、なにやら大変で、3年くらい治まっていた抜毛症が再発してしまった。抜毛症ってのは、ストレスがかかったときに自分の毛を自分で抜いちゃう病気のことだ。自分で制御できないことに対して、自分で制御できる行為をして、落ち着こうという心理からやってしまう。発症するのは真面目な性格の人間が多いのだそうだ。病気にも出る私の真面目さ。この病気とは小学生の時からの長い付き合いなので、発症しても慣れたもの。昔は髪の毛が散らばる机を見て、罪悪感でいっぱいになっていたけど、今となっては「割と追い詰められてるようだ」というストレスの個人指標みたいになっている。これ超えるとやばいよーっていうやつ。大人になって精神が落ち着いたら治るよって言われて、確かに頻度はだいぶ減ったけど、重た目の出来事があるとやっぱりだめみたい。こんなときは意識して呼吸数を抑える。嫌なことがあると寿命が縮んでいる気がする。でも嫌なことに縮められるのはもっと嫌なので、効果があるかはわからないけど、呼吸数でチャラにする。相手を許して生きるには自分の中で相殺しないといけない。敬愛する知久寿焼さんは「僕のために君を許してあげるよ」と歌ってくれた。許しとは相殺の精神からくる。

ここ2日間は博物館の標本室でひたすら骨を見て過ごした。骨や筋を見るのは人と話すよりずっと楽しい。できるなら、他のことはやりたくないくらい楽しい。でも今はやるべき仕事が多くて、困っている。一人でいろんな仕事をしないといけないから、綺麗に噛み合う歯車を作ってやるべきなんだと思う。一個動かせば全体が動いてくれるシステム。全部を真面目にできるほどの脳みそが私にはないので、やりたいことをやるために、真面目にやるべきことを今後は選んでいかないといけないかもなぁ。

ありがたいことにやさしい人が周りに多いので、その支えに頼りながら今年一年は真面目にやりたいことを真面目にやるための、土台を整えていこうと思う。最近、三十路を手前に、あと何年好きなことを、好きなようにできるかなぁと考える。そのための5か年計画。好きなことをできるだけ長くできるように、真面目にやって、それから深呼吸。頑張っていきましょうね。

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