パリピ

逆張り、かもしれない、ただの逆張りなんだろか?でもいうなればずっとそうだし、それはそれで、そこに土着があるなら開き直るしかないというか。
アンチ資本主義の話をしていて、評価の方法(資本)について、わたしはアンチの姿勢をとっている。これはなぜか?うまく理由づけられるものは逆張り以外にあまりないけど、既存のシステムに、無自覚・無思考に身を委ねることがなぜだか(?)できない。あるべきである、と思えないことは単純にできないだけ、という話に落ち着くけれども、そういう思考を世間には散見しない。
長いものに巻かれたくない、まあこういったアレはいろんなひとがあるんだろうけど、そういう人たちの「成功」の形は一体なんなのか?やはり大半は「資本主義的なものへの回帰」に自覚・無自覚かかわらず、たどり着いてるんじゃねえのかな。諦念か、デザイアか、それは知らんけども。
たとえば自動車の部品だけをつくってる町工場の社長なんかに話を聞けばいいのかもしれない。メディアにもとりあげられたりしないし、憧れの職業にも呼ばれないような場所。
わたしにも自覚はあって、たとえば見ている世界はだいぶ偏ってると言わざるを得ない。現代は歪んでいて、情報を摂取するためには情報を発信している場所まで自ずから向かっていかないといけないから、情報を発信しているひとの情報しか手に取ることができないので。
アカデミーは資本主義的なシステムからはひと拳ぶん、距離があるから、好ましく思えるのだった。
よく見えない場所に行きたいと思ってるのに、自分が拾ってる情報がギラギラ広がってるようなものばかりだから違和感なんだな。よく見えない場所に行きたいなら、よく見えない場所に行かないといけない。

たとえば正しいことには興味がないし、人たちにも興味がない。正しさは追求するものではなくて、正しくないことや正しくなさそうに見えるものになるべく触れないようにするだけ。よくないものに自分から向かっていくひとたちがいて、それにはびっくりする。たとえば、春節のシーズンに対する、中国人ヘイトなんかは、ほんとにみんなアッサリとする。朝ごはんは目玉焼きだった、と同じ軽さで、中国人多くてイヤですねー!って言う。基本的に自分の中の「ネガティブ」を外に出すことはしないほうがいい、というリテラシーがないことの、自覚がないことに、笑ってしまう。主語がでかいとかも怖い。主語はたしかにでかくなりがちだが、それでも気をつけて使うべき。正しいことの正しさを判断するのは、めんどくさいけど、正しくないことを選択的にしないことは比較的容易にできると個人的には思う。
人に対してもそう。最終的に興味がない。それぞれが、各々でしあわせであってほしい。わたしとの相関は重要視しない。
少し考えて思い当たったのはやはり、江國香織と川上弘美なんだけど、あれらの小説は、ずっと一人なんだった。小説は一人称のものが多いし、独白調で書かれる。そもそも小説を書くという行為は、他人の直接的な介在はほとんど皆無だ。一人の視点から切り取った世界を一人で考えて一人で歩む、わたしにとってもやはり世界は同じなんだと思う。こちらの世界に馴染む。

いろいろをやめて、やめて、やめて、やめて、やめて、やめて、やめて、やめて、やめて。それでようやくたどり着いたような気もするような場所にいる。5年ぶりくらいに、紙の日記を復活させようかななどと考えている。人との距離感。土地との距離感。落ち着いているわけではないけど、落ち着く方向に向かって歩いていることはなんとなく実感する。やはり、他人の介在は考えられないんだなあ。だって自分の人生だもの。長いものにすら、巻かれたくないのだし。

仕事(自分の)は良い。とにかく、相手の頭の中を整理するのが楽しい。ただの趣味。たとえば看護師や介護士の友人の話だが、いわゆる「おじいちゃんの耳クソほじるのめっちゃすきなんだよね」状態。いやわかる。おじいちゃんの耳クソほじりたくないけど、その快感。ウッからのスッは、スッに対する快感がゼロからより強い。汚い部屋を片付けるほうが楽しいよねっていう話。

わずかに興味があることは食と酒と空間。あとは見た目の色とか。いつも言ってるけど、ママゴトがすきなのだ。再現構築が趣味なだけで、独創を持ってるわけでは1ミリもない。これは小学生のころから同じ。小1のときから、家でパーティーをしていた。パーティー歴は長い、生粋のパリピなんだ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?