I wanna...
表現は美しいと思う。短編映画をみた。(女教師 (2013) http://www.myfrenchfilmfestival.com/ja/movie?movie=37419&video=3884#videos)
もっともっと、たくさんたくさん表現しなければならないと感じる。わたしはたとえば、日本語を使って言葉と文字を使ってここにメモをのこしたりしているけど、とにかくなにかしたいという衝動がおこるのは、気分がアガる。
生活はいろどりをもつべきだと思っているし、わたしは、信じている。映画の中のような生活を可能にできると。
ああ、仕事の夢をみた。仕事を辞めるが、仕事の夢をみる。最近。ナイトメアだ。この前は、会社の上司に黙って会社を休んだところ、会社の上司に会ってしまうという気まずい夢で、しかもその翌日にその上司に本当に電車で遭遇したり、今朝(夕方)みたのは、やるべき仕事できるできる〜と思っていたらぜんぜん終わんなくてぜんぜん終わらないで死ぬほど焦る夢だ。これはぜひ正夢にならないでほしい。
欲望のような振動はわりと重要。推進力だ。とても奇天烈なひとに会ったりすると、なかなか言葉があてはまらなくて、ふわっとした気持ちになる。久しぶりに土曜日の夜から12時間以上も遊んでしまって、とても楽しかった。楽しかったという表現が適切かどうかいまいちしっくりこないが、友人と渋谷で酒を飲み、月曜日にオッパーラで会った人と合流し四人で酒を飲み、その後カラオケに90分立ち寄ってオースへ向かうというルート、オースのいいところは東京で数少ないフォトジェニックなダンスバーという点。わたしは映画に対して真剣に考えたり向き合ったりしたことはないが、映画の好きな点は、映画らしさが映画の中には満載だからだ。
たとえば、夢や希望、あるいは欲望があるとして、それはどんなカタチをしているか考えることがある。あるいはそのカタチを自分の中で一生懸命イメージし、膨らませ、具現化しようと努めたりする。そういうことは、あると思う。たとえば、クラスのすきな男の子のことを考えるとき。手をつないでいるイメージや一緒に過ごしている想像。かなうかなわないはともかく、そのイメージ(虚構)と現実の距離をきちんと認識し、どう捉えるかで、なにかがあるいは変わって行くのである。
わたしの生活のイメージは映画にある。映画にあるのは、他人の生活だ。自分のものではない生活、自分の場所ではない場所、自分の知らないひと、自分の知らない世界。わたしはそこを生きることを、常に欲望として抱え、イメージしている。
東京にでてきて、まだ10ヶ月にも満たないが、時折、その抱えるイメージ(虚構)と現実がクロスする瞬間が、このごろ、徐々に増えつつあるのだ。
だから、もしも、わたしが表現のさいはてに、なにかを産み落とすことがあるとしたら(いまのところ予定はないが)、それはきっと虚構の現実ではなく、現実の虚構化にならざるを得ないだろう、世界が、こんなにいい匂いでできているなんて、たぶんだれも信じない。
みたいものをみる力が、ある。いや、もちろん、そんな簡単な話じゃなく、鬱屈も僻みも、卑屈も、惨々抱えた。
内包する起伏の数は、多ければ多いほど、矛盾が生じる。これはなかなか、難しく、とかく起伏の数の多さをきちんと認識している相手との関係の中でないとかなり理解されることが難しい。矛盾は、たとえば起伏の少ない場所にいるひとからすると、シンプルでわかりやすくなってしまうからだ。
だから、難しいので、ここでは卑屈と劣等感とそこに同置する充足感、不足なくバランスが保たれる状態、という到底物理的にも実証不可能と考えられる事象に対する説明は省く。
とにかく、みたいものをみる力は、生きたい人生を生きる力にほかならない。生きたい人生のほかにあるのは、生きたくない人生で、それはきっとまた複雑に同棲することが可能だから、ここでは生死の倫理観や絶望との距離感の話も避けるが、生きたい人生を生きることは、簡単なんだ。
生きたい人生はたとえば瞬間的だったりする。それはたとえば、映画をみたあとに、美しいと感じたり、こころが揺れたり動いたり、新しい起伏を覚えたり、そういう機微のなかにあるが、それをきちんと捉えることさえできれば、あとはもう、その瞬間のイメージをひたすら繰り返すだけ。
あとは少しずつ、もう少しずつ、得意でないものとの付き合い方を覚えて行ければ、もう少しずつ死なないはずの人生がおくれると思う。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?