アンチコミュニケーション

だらだらツイッターしてたらちょっとまとまってきたかも。

コミュニケーションの快を求めまくったら、最終的にアンチコミュニケーションになって最高の快を得た話。

まあこれだけの内容なんだけど、今までの人生で「コミュニケーションの快」を得たことがほとんどない。
それでも最初はコミュニティのため(所属していたい)、セックスや恋愛のため、あるいは世間体のため、それなりに擬態してごまかしてきた。

バ先に、愛想のいいお兄ちゃんがいてよく話しかけてくれるんだけど、相手主導の発展性のないコミュニケーション、まじで無駄だな、って思った。今までは、相手の愛想に合わせて最低限の愛想は返していたけど、やめます。何も楽しくない。

まあ、ツイッターでお気持ちと知性(主義)の話をしてたので、絡んでしまうけど、「お気持ち」だって確定するまでには紆余曲折ある。
たとえば今回の話は、最初に聴覚と視覚の認知。相手が明るく笑顔でいるから、「楽しいに近いもの」という認知をまず行う。その過程に言語化は特にない。つまり反射だ。反射で「きっと楽しいような感じ」をつかむ。で、最初はその反射の『お気持ち』に流されて行動するわけだ。
でもそれを続けていって、私の場合は徐々に「不快」が蓄積していった。聴覚と視覚は「楽しい、あるいは快」を示してるのに、なにか引っかかる、負の感情がポタリと残る。雨だれが石を穿つように負の感情が増えていくと、ようやくそこで「思考」が入る。なんでわたしは不快なんだろう?
それでようやく、上記のような結論に達する。

こうやって書くとわかるなーって勝手になっちゃうけど、知性主義のいう反知性って、非思考とか反射主義に言い換えられるんじゃない?特にSNSなんて反射の塊じゃん。そりゃ、アンチを掲げて攻撃したくもなるわ。
面白いのは、つまりテーゼを掲げて、側に立ち、反対側を定義して相手を叩く、この構図で正しく相手を選べているパターンの少なさ。今回の話の発端のみしきさん→小田嶋氏も、叩く相手間違えてるよ、の一言なんだよな。

話を「アンチコミュニケーションが快適だった」に戻すけど、わたしのそもそものスタンスはアンチコミュニティだったんだよね。世代的には「オタサーの姫」とか「サークルクラッシャー」とか(の単語)が台頭する前後。わたしはこの2つに非常に敏感だった。

快適なコミュニケーションが存在しない、と呼ぶところのコミュニケーションについて少しまとめておくけど、たぶんわたしは非常に敏感なのだ。自分や相手の心の機微。どうすれば、意図した内容を意図したとおりに相手に伝えられるか?(コミュニケーションはしばしば、幾度となく本意とは別の形で伝わるものである)
あるいは、攻撃意識のないことの表明。わたしは圧があるタイプの人間なので(これはもう生まれつきだから仕方ない)、よく同じ圧同士で無意識的にぶつかったり、あるいは怯えられたり逆に擦寄られたりする。そういう、型を重視したコミュニケーション(中身のない=無駄)も嫌いだし、そういう風にならないよう、人間対人間であること、フラットでフェアな関係であるという前提の共有を徹底したりする。
つまり、非常に細かく煩いのだ。でもこれくらい徹底しないとコミュニケーションの意味なくない?
もうこの時点で、世間一般にいう「コミュニケーションワチャワチャ」からは程遠くて、乖離しまくってるわけで、そりゃアンチコミュニケーションをとらざるを得ないわ、みたいになってきた、、


また、コミュニティに属したときにその場に「なんとなくいる」ということが、圧倒的に苦手だった。なにをしていても、どこにいても「理由」が必要。(だからこそ、アンチ理由とか根拠みたいなものはわたしの人生のテーマでもある)
ここも同じく、徹底を続ける完璧主義的な性質がでている。

コミュニティにおける自分の佇まいをある程度客観視できても具体言語化できないというのもある。言葉を知らないというのは、つまり言葉がないからで、それはすなわち「類似の事象に心当たりがない」ということだ。また、同時に「言葉をつくるほどのセンセーショナルさから程遠い」。

サークラ、とか姫、とかは、言葉をつくるほどのセンセーショナルな出来事だった。似たような事象があちこちで散見された。でも実際に、中の人間というのはいないような気がするのだ。最近では意図的に「悪女」をやるパターンもあるみたいだが、この『意図的』っていうのがキーワードとなる。

少なくとも、わたしの所属(当時)していたコミュニティ内には意図的なクラッシャーも姫もいなかったんだよな。無意識的にその位置についてしまう、という事象のほうが、当時は多かったのでは、と思う。
言い換えるとわたしは「無意識」に敏感でかつアンチの態度をとっていると言える。→知性主義のいうところの反知性がこれを指すのであれば、知性主義の人たちはわたしに近いのかも?

コミュニティに所属してまず面食らうことが多かったのは、それこそ「思考によらない言語/ コミュニケーション」であった。つまり「反射」同士でコミュニケーションをとっている。論理的な思考に由来して言語を構築するわたしにとっては、至難of至難、到底理解できない現況だった。

次に、思考による言語化をおこなうコミュニティに接し/所属した。これは最初、快のように思えた。言語を積めば積むほど相手が吸収してくれ、そしてわたしも相手が言語を構築するほどにそれらを取り込んだ。本来、これは恋人同士とかでするべきもののような気がする(不案内な分野ので、気がする、で留めておく)。しかし、これをコミュニティ、10人は超えるような人間同士で行ってしまった。奇妙な連帯/一体感と高揚を続け、やがてバブルは崩壊した。
言語を無限に構築したところで、行動はそこまで大きく変わらないし、やがて、言葉は堂々巡りを始める。朝までの議論は、無の積み重ねになっていく。

そこに気づいたとき、わたしはそのコミュニティから離れた。いちばん恐ろしかったのは、そんなデフレにいることに、わたし以外の誰も気づいてなかったからだ。あるいは気づいていて尚、その渦中から抜け出そうとしなかったから。(後者のほうがたちが悪い)
同じことの繰り返しを延々と語り、朝を迎える。そんな日々に身をおいていても、なんにもならないのに、と当時は悟っていたように思う。

その後、コミュニティは点々とするものになった。それによって、コミュニティ内での自分の価値(コミュニティ価値)をコントロールできるような感覚も少しあったりした。
その当時はコミュニティ喪失→依存みたいなもの、ある種の中毒性みたいなものも抱えていたように思う。
ついにわたしは弾けて飛んで、東京から脱出した。

そのころにはすでにアンチコミュニティの立場を自覚していて、コミュニティなきコミュニケーションを求めてさまよっていた。なぜひとはコミュニティを求めるのか?いまだに答えはでない。あるとしたらやはり『お気持ち』なんじゃないか。反射でも論理(理性)的でもいいけど。
・人から認められたい/承認されたい
・一人でいたくない
・サムシングを共有、共感したい

コミュニティの快(コミュニケーションではなく)みたいなもののひとつに、「場の掌握」というのがある。つまり、縄張り意識だ。勝手知ったるナンチャラとよく言うが、既知であることが優位になるようなパターンが、特に田舎では多い。
大阪にいたときに接したのはこのパターンのコミュニティ。知ってる店、知ってる店員、知ってる常連仲間。同じ穴のムジナである。(狢っていうのはたぬきのことですよ)
オープンであることを謳い文句にするような場所にいくほどクローズドになっていくのは面白いよな。

ひとつのクソ体験があって、当時、ちょっとだけ気持ちを寄せていた人間が、最終的にわたしの側に立つことなく(繕いすらなく)、田舎(地元)の側にまわってわたしを批難/敵対視したことだ。これは衝撃だったのは、なによりも、1:1の会話をしているのに、その中においてもその当人においてはコミュニティへの所属意識があったこと。
かんたんに言うと、もしその当人と入籍するということになったら同時にそのコミュニティへの入籍を意味してしまうということ。戦慄した。その人もだいぶ特殊だったことについて異論はないが、だとしてもこれが特別に特別な例だとも思わない。コミュニティには、そういった「場の連帯感」みたいな、外側の者へ向ける圧がある。そして恐ろしいのは、やはり中の人間はその圧を外の人間に向けていること、その圧の存在にすら気づいていないということだ。

「無意識、無自覚は恐ろしい」

これが、わたしの人生の結論であり、意見であり、持論である。すべての話はこの一点に収束するといっても過言ではない。それほどに「自覚的であるもの」に出会うことが少ないのだ。

そのころには自分のコミュニケーションそのものも変容していて、相手の言語(化)レベルに合わせることと、構築される無を受け流すことを主体とするようになった。
つまり、コミュニケーションに自分の意図や欲や目標を求める/表すのをやめたのだ。この頃からディスコミュニケーションがはじまる。

これができるようになると、人付き合いが格段に楽にできるようになった。いまのわたしが最も好む話題は天気の話で、天気の話は最も共感を呼びやすく、発展させやすいので扱いやすい。構築される無の中でも、まろやかで骨の刺さらない感じ、乳製品のようなやさしい味わいが特にすきなのだ。だから、無(コミュニケーション)を始めましょう!というときには率先して天気の話をしている。

もともと、無のコミュニケーションは得意で、つまり自分の中にあるスイッチを切るだけで、あとは自動モードで自分の口があることないこと勝手に話してくれるからとりわけ苦労したこともない。最近はこれに加えて「まるで論理的なことや自己意見をメキメキと話す頭の回転の早いひと」(に見せる技)をこの自動モードでできるようになった。これは職場で上位の立場にいる人間にマウントをとったりするときに有用なので重宝してる。

ほとんどのコミュニケーションを無(自動モード)でやるようになって、ようやく、一連のコミュニケーションの不快度を理解するようになる。不快と呼ぶほどの負はなく、ずっと書いてる通りの「無」だ。無なんだもの、程度もクソもなく、永遠の無。

こういった意味で、他人に食指が動くことがほとんどなくなった。女の子のほうがまだ興味を持ちやすい(関係性の発展の仕方のバリエーションが多い)し、実際、女の子はかわいくて楽しいから無の中でも天気の次くらいに気に入ってはいる。

それでも半年〜年末くらいまではセックスしたかったから、ある程度、繕いながらコミュニケーションを必要なときにはやったりもした。あるいは、まだ他人を諦めたくなかったし、東京にいたときに得られたものと似たようなものが欲しかった。単に口寂しいだけであったと自覚するのは、もう少しあと。

他人を諦めたくなかったというのは、諦めたあとで考えるとなんとも無駄、それこそマイナスな時間を費やしたなあと思う
。もちろん、その時間あっての今だから否定こそしないが、もっとはやく切り捨てるべきだったものの最上格。
セックスはいまでもたまにしたいけど、「無自覚」とのコミュニケーションを経てまではもう求めない気がする。年を取るとはこういうことなのか、など。

いまは、自分という格を慈しみ、かつ楽しんでいて、非常に満足している。コミュニケーションに依らなくとも、満ち足りる日々を送ることはできるのだ。
他人は理解できない。それで、なんの不自由もない。

ところどころ、書くべき要素を省いているのは時間の関係もあり。またいつか追記するかもしれない。

それでは、「喧嘩をするな、コミュニケーションをやめろ」ということで、さようなら

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