ハードボイルドの美学

そもそも、「美学」というものの概念が薄れてる気がする。というのも、「美」を求めるのは当たり前の時代になったんだろうというのがあるから。TVCMで、男性用化粧品(ケア用品ではなく、いわゆるメイキャップ用品)が流れるようになったのを見て、〈変化〉を感じずにはいられない。

私にも一人の人間として、どうしても旧時代の人間的な、捨てきれない側面がある。「美」に関する羞恥だ。

たとえば、今の若者(定義は曖昧にしておくが、おおよそ35より下だろうか)は【自分を媒体を通して外側から見ることに抵抗がない】だろう。わたしにとってはそれがとんでもなく違和感なのだ。
動いてる自分どころか、自分の喋ってる声ですら、媒体を通して聞くことは耐えない。写真ですら、好きじゃないのだ。客観的視覚的に好きな自分は、唯一鏡に写った自分だけ。自分以外の他人と同じ目線で自分を見るなんて、恐ろしくて到底できない。

それについてチャレンジしたい、壁を乗り越えたい欲望はあるが、これは今回の本題とは逸れるので、まずは本題にうつる。
自分を外に出す≒自分を外から見る、ことに抵抗ないし障壁のない現代人はすごい。

昔、恩田陸(わたしの記憶はだいたい恩田陸でできてる)の本で彼女が書いていたが「人間はなりたい人間になっている」のである。背が高くなりたい、と思えばその遺伝子が積極的に残るし、足が長くなりたいと思えばそれもそういう風に変化している。実際、平均身長は高くなりつつあるし、「自分を外から見ることに抵抗のない人間が増えた」というのは、まさにそういうことなんだと思う。見たい自分をつくることに、人類は成功している。

わたしは時代の潮流を批判したり、踏みとどまって考えようみたいな野暮なことを言うタイプではないのは、すべては科学的なことだと思うから。倫理やら正義やらはわからないが、少なくとも(人間に関わらずとも)宇宙の方針としては、進むべき方向に進んでいる、そしてそれが破滅(なにかの?)を結果的に導いたとしても、宇宙、あるいは宇宙をもこえたなにかのなるべくしてなる姿なんだろうと思うから、進歩や変化を否定も批判もする気はないのだ。

ただ。結局こうして、時代の潮流に取り残された身分の人間にも、気まぐれに筆をとらせてほしいものだが、ただ、私は「もっとハードボイルドに生きたい」。

「自分の美(意識)に無頓着である」ということの『美』をもっと主張したい。自分のことをスッピンでもかわいい、と思ってるわけでもなんでもない。それに新たな派閥を作りたいわけでもない。なぜなら、ハードボイルドだから。

アンチコミュニティの話と近くなるけど、ハードボイルドもアンチ派閥≒アンチコミュニティなんだよな。

個人的なハードボイルドの2大巨塔といえば、チャンドラーの「ロンググッドバイ」とアニメ「カウボーイビバップ」だ。ま、端的にまとめちゃうと、どちらもオンナを作らず、ニヒルで孤独に世界や他人をしっとり救っちゃったりする影のヒーロー物語ってところかしらん。そういう意味でいうと、こち亀も実はハードボイルド。成功はしない。いつでもビンボー。大金を手にする機会があっても、それはいつも寸手のところでパーになったり、手に入ってもだれかにあげちゃったり。マーロウも、スパイクもまったくおんなじだ。カーッコイイでしょ。言うなれば相棒も、ハードボイルド寄りか。出世も名声もいらない、興味のあることだけを黙々と取り組む二人。やはり恋人がいない≒女っ気のなさっていうのがポイントなんだよなあ。

ちょっと逸れるけど、バ先の男の人の話。結婚したらしい。それも同じバ先の女のコ(私も知ってる)と。ただのめでたい話なんだけど、その二人から鍋パに招待されて、めちゃくちゃ行きたくない。

とにかくさあ、「恋人がいる」人間にひたすら興味がない。これもわたしが恋人でk…いない原因のひとつよ。

ハードボイルドの最も美しいと感じる点は「常にマイノリティの側に立つ」ことなんだよね。わたしは、ほんとうに4さいとか5さいのときにはすでに「あっち側」と「こっち側」で世界が分断されてることを自覚していて、それから大人になって、どうにか境界性になろうと努めた時期がある。これはわたしが如何に器用貧乏か、という話でしかないけど、最終的には「あっち側からは『コッチ側』認定」され、「こっち側からは『アッチ側』認定」され、どちらつかずになって終わった。はみ出し者は私だったんだなあ、となっていじけて長崎にきた(わけではない)。

何が言いたいかっていうと、マジョリティとマイノリティって、いる場所によって変化するでしょ。そのときに、わたしは臨機応変に場に合わせてマイノリティに寄りたいし、その生き方はハードボイルドだと思う。

アー、結婚がマイノリティになった瞬間、わたしは結婚するのかもしれない。なるほどな。

やっぱり、自分をメディアを介して売ろうとする立場(意欲こそ否定はしないが)はマジョリティなんだよな。よく言ってるけど、それはつまり「長いもの」だよ。そんなに巻かれたいのか、長いものに。自分を縛り付けるだけのものに。なぜ。

そして同時に、マイノリティがマジョリティになった途端に得るパワー(権力?)みたいなものも恐ろしいのだ。本来は、すべてのパワーバランスが偏らずに、各々がマイノリティ同士、お互い譲り合う、くらいの形が理想だと思う。ただ現代の資本主義のシステムではそれには向かないだろう。

だからどーして、自分という個でひとり「アンチコミュニティ→アンチコミュニケーション」を掲げ、自分という個でひとり「マイノリティ」を突っ走るのだ。
そうすればいつか、自分の納得するマイノリティにどっかで出遭うかもしれない。

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