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11/6-11/12

・仕事始まった。生活が少し安定
・同居人さんが近くに引っ越した
・日曜日(11/12)、新しい職場の同僚さんと飲みに行く(彼女は11/25に帰国してしまう〜)
・トーマス見たりダブルオー見たり実況動画見たりしてる

仕事を3ヶ月ぶりくらいに開始して、アルバイトっぽいアルバイトをしていて、なんていうか過去の経験を思い出したりもするけど、大人になるって本当に「ラク」が増えることだなあ、と思う。

現場で今すぐ認められる必要はないこともわかってるし、自分の能力を過小でもなく過大でもなく適切に理解してるし、できることにもできないことにも怯えなくなったなあと思う。「世間の普通」と「自分の普通」のギャップに泣かないで済むようになったし、できるフリとできないフリを交互に使いながら、どの位置でいれば精神の滅しを最小限に抑えられるか、のコツも掴めるようになった感。愚痴なんて話し始めたら資本主義の起源から遡ることになるしやめる。っていうこれも、「諦念」なんだなあ。

同時に、他人に対する諦念が自覚されて来た。物理的距離も物理的時間も大事なんだなあ、と改めて身にしみる。

いわゆる典型的な、お一人様、になりつつある。怖いと思わないのは、私は他人といる時間が大好き人間でもあるから、一時的なものとして受け流せるからだけど、それにしても、完璧に「お一人様」。
他人に対して最初から諦めがあるんだよね。一緒に飲んだり楽しんだり、喋ったりできるんだけど、「楽しもう」という気にならない。だって楽しくないんだもん。いつも学生時代の自分のコミュニケーション方法を反芻するんだけど、あの「前のめり」感はない。と言いつつ、あの頃みたいな面白い人間に会ってないのも事実だけどね〜。

東京を出たのは端的に、「人間関係とその維持にかける熱量」に耐えられなくなったから、と今なら冷静に分析できる。最終的に、もう耐えられない、ってなった。から出た。頭を冷やす、ためにとった行動とも言える。もちろんそれだけ、じゃないけど。兎にも角にも、「コミュニケーション」が下手くそだったなあ、と思う。そしてそれは今も、全くうまくない。

書いたらスッキリするかな、と思ったし、描く前は明確にわかった、と思ったことなんだけど書いてみるとむしろモヤモヤするなあ。結論は続けるのを諦めるのを諦めて続けたい!っていう話。

幸せ恐怖症っていうのはすごくあるっていうか、これが私の人格の土台だと思う。今ある人間関係なんていつか壊れてしまうんだから、だったら常に新しい人間関係が生まれるような場所にいないと不安で仕方ない、だから私は移動を続けてる。新しい人間関係を渇望するし、同じくらい年数の経る人間関係も大事にしたい、でも誰もいない場所でも生きていけるメンタルも必要で、実際それに慣れて行くと、いかに他人との接触がストレスか、ってことに気づいても来る。みんなにはオーストラリアにいることにしておいて、黙〜って東京に住みたい。

結局「諦める」っていう行為は、何かを冷静化、鎮火させて、ある程度距離をとらせて理解に繋げるかもしれないけど、何かを成長させたり、進歩させたりはしないんだと思う。それが悲しんだろうね。私は東京を諦めてしまった。壊れていく不安から逃げてしまったし、実際関係の変化は必然で、その変化しつつあるものを受け止めきれなかったし、その変化の全部が私の納得いくものではなかった、当たり前だけど。変わって欲しくない変化もたくさんあって、そういうのを処理す(諦め)るために離れた。離れたことを後悔はしてないし、多分、気質的に旅人っていうかフーテンっていうかちゃんポランなのは変わらないと思うんだけど、「諦め」っていうフェーズに対して納得してないんだなと思う。「毎日会える」に価値はなくて「今日しか会えない」が大事になって来ることの寂しさとか、新しい人間に対する「どうせわかんねえんだろうなあ」という諦念とか、そういうのを受け流すのをほんとはやめたい。でも結果として「諦めない」自分を持続・維持するための熱量に自分で潰されてメンタルグチャ〜〜〜して東京飛び出してるから「諦めたくない」が弁証法的に実施できないことが実証されてしまっている。。。。この現状よ。。。でも本質は、なんていうかざっくばらんに言っちゃうと、「(お互いに)諦めないで済む持続する人間関係」を私は求め続けてるってことなんだろう。自分の欲望に向き合うっていうのもなんていうか滲みる作業だなあ。。。自分の欲望を叶えられるのってだって、自分しかいないんだもの。。。私は私のために頑張って生きないといけない。だって・・・悲しいでしょ、諦めるのって。

でも現状は新しい人間に対して「どうせわかんねんだろうなあ」とどうせ思うんだろうなあ、というのが見えすぎていて、誰にも会わない日々だからね。本末転倒も甚だしい。前の同居人さんはちゃんと大人だから(人の話を最後まで聞かない習性はあるけど)、諦めも距離感もむしろ「わかってる」側の人間で、一緒に酒飲めるしありがたいんだけど、全然楽しくないのね。単純に、知ってるものの範囲が重ならなすぎる。興味の対象が重ならなさすぎて、会話がすぐ手詰まる。複数人で遊んだら楽しいだろうな、って感じの。

でもかといって範囲が重なれば絶対に楽しい、なのかというとそれも違うんだけど・・・。

・私をコンテンツとして消費するぞ、という気概のある人間、心意気が前提としてある人間と話すとき
・私がとにかく話したい内容を私のテンポで、相手の理解速度を意識せずに話せる時
・私をコンテンツとして消費させるのは諦めて、他人同士が私の庭で楽しんでる時

この3つで私はコミュニケーションを行ってるんだけど、そろそろ他にも丸ぽちを増やしたいね〜〜〜全く想像もつかんけど。お笑いに憧れるのは、やっぱり自分をコンテンツとして、消費させるという気概を自分の中に持ってきちんと結果をだしてる点だね。

相手の理解速度を考えずにものを話す、なんてできる場所はもう今後増えないのでは???って感じ、これ大事な点だから覚えておこう。

新しく他人に向かっていかないと、単純に英会話スキルが伸びないから、そろそろ外に向かいたいんだけど、相変わらず、どこにもでかけられないでいる、ジュジュさんが来る前に友達作りたい。あ、山登るか、チャリ乗るかしようと思う。毎日暇すぎる。

ちなみに思いついた文章を前後関係なく書き出して、後からパズル的に前後見ながら組み替えていく方式で最近は文章書いてるので、たまに話の流れヘンになってるかも。。

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