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ネット大喜利をするすべての人たちへ(ボケクエ5敗戦記)

ネット大喜利をはじめて早2年が経ちました.今は亡き大喜利プラスからはじまり,淡々とボケ続けてきましたが,2年間も続くとは思ってもいませんでした.

その2年間の中には,チーム戦を通して顔も本名も知らない人と交流したり,滑りまくって本気で落ち込んだり,大ウケして舞い上がって,採点が適当だと5chで炎上したり,他の大喜利erと喧嘩をしてしまったこともありました.

今では全ていい思い出です.

実績らしい実績は何もない2年間でしたが,今回のボケクエ5のチームメイトであるpokopokoさん・七億さん・パシフィックさんをはじめ,僕のボケを面白い!すごい!とたくさんの方々に仰っていただきました.

そんな僕が今,ネット大喜利に対して思うことを,全部書きたいと思います.かなりしっかり考えて書きこんでるので,ネット大喜利が好きな人は読んで損はない内容です.

※とはいえ,この記事はただの1大喜利プレイヤーの戯言です.真に受けるか真に受けないかはみなさんで判断していただけると幸いです.


ネット大喜利は運ゲー

いきなり身も蓋もないことを言いますが,僕はネット大喜利は運ゲーにかなり近いと思っています.

もちろん100%運だと断言するわけではないです.実力もあります.ただ,ネット大喜利をある程度している方なら「ネット大喜利は運ゲー」のニュアンスはなんとなくわかる方もいるのではないでしょうか.

絶対ウケると思って出したボケが大滑りしたり,逆に全然自信のなかったボケが上位にいったり.なんて日常茶飯事です.

また,結果が出た後,「なんでこんなおもんないボケに負けるんだ!」と思うこともしばしばあります(これは大ッッ変失礼であり,僕だけかもしれませんが).

僕はこの理不尽さに,ネット大喜利の魅力が詰まっていると思っているんです.


大喜利に必勝法はない

ネット大喜利は自然言語を使った遊びです.自然言語というのは,人間の使う言葉のことです.

少し前,大喜利AIというものが流行ったことがあって,AIが出したとは思えない面白い回答がTwitterで回ってくる時期がありました.しかし,やっぱりまだAIの答える大喜利は答えになっていないものや,意味わからないものばかりです.

何が言いたいかというと,大喜利という営みは今のところ人間に特有のものであるということです.囲碁や将棋は人間より強いAIがいる時代だし,麻雀やぷよぷよなんかにも必ずコンピュータがいます.

でも,ネット大喜利の大会にCPUはいません.

なぜかというと,自然言語は完全な解析がいまだに難しいとされているからです.科学的に解析ができてないのですから,コンピュータなんて作りようがありません.

小説や漫才にも同じことが言えます.小説や漫才も,大喜利と同じように自然言語を使った営みですが(漫才は表情とか声とか他の要素も多少ありますが),コンピュータに書かせた小説が芥川賞を取ることはないだろうし,AIの考えた漫才でM1グランプリを優勝することも少なくとも今はできないでしょう.

ではどうして,自然言語は完全な解析が難しいのか?その理由は,

1 通り数(単語・文の組み立て方など)が多すぎる

2 人によって受け取り方が同じではない

3 時の流れとともに生まれ変わっていく

の3つだと考えています.

実は,僕が大喜利は運ゲー!必勝法はない!という根拠はここにあります.自然言語の解析が難しいことから生まれるこれらの不確定要素によって,ネット大喜利は他のゲームとは違って,

「確率は関与していないのに運要素がある」

というどんなボケよりも面白い性質を持っています.


もちろん強い人は強いし,弱い人は弱いというのは事実です.ただ,強い人が外すこともあるし,普段あんまり上位で見ない人が急に大ウケしたりします.

麻雀のように,明らかに確率が関与していているならこういう番狂わせは運なので簡単に起こります.大喜利の面白いところは,これを確率ゲーなしでやってのけるところだと僕は思います.


ネット大喜利における実力者とは

以上,大喜利には不確定要素がある点を踏まえて,ネット大喜利が強い人は何が強いのかを分析してみます.

とはいっても,僕は今回のボケクエ敗退を含め全く実力はないので,僕自身も試行錯誤している段階での考察です.それでもいいよと言う人だけ読んでください.


そもそも大喜利が「強い」ってなんでしょう?

これは単純に他人と競ったときに,より上の順位に来ることです.これは当たり前です.

ただ,より本質的には評価関数が何なのかを知る必要があります.

例えば,ボケクエのような大会なら0,2,3,4点の中から投票してもらって,合計得点で競うのが一番メジャーです.

一方,僕の故郷,今は亡き大喜利プラスは面白い評価関数を持っていました.合計得点で競うのは同じですが,投票者が票を入れられるのは面白かった2ボケだけです.つまり大喜利プラスでは,3番目に面白いボケと一番つまらないボケが差別化されていなかったわけです.

他にも10人だけに採点されるネタボケライフなど,同じネット大喜利でもそれぞれ評価関数が違います.単純に考えたら大喜利プラスでは人を選んでも一発のあるボケが,ボケクエのような大会ではより多くの人から点を入れてもらえるボケがより良い,ということになります.

実はこれは,今回のボケクエのチームメイトの七億さんがボケ会議の時に少し話していたことでもあります.そもそも評価の基準が何なのかを考えることが大切かもしれない,ということです.

ですが,大喜利プラスのような癖のある評価関数はまれで,最近のネット大喜利の評価関数では,基本的に多くの人に受け入れられる=強い,というパターンがほとんどな気がします.

僕は,これは音楽に近い性質があると思っていて,一緒くたに「いい曲」というといっぱいあるけれど,本当にヒットしている曲って実はそんなに奥があるわけでは無かったりする.会いたいだの好きだよだの言ってるだけのラブソングとかがなぜか流行ってたりする.多くの人に受け入れられるというのは,そんなに深みがなくても共感を得られることの方が重要な傾向があると思います.

(注:もちろん,共感を得られて深みもある神がかったボケもあります)

なので、伝わる人は少ないけどわかるとめちゃめちゃおもろいボケと、面白さはそこそこだけどみんなに伝わるボケなら、ネット大喜利ではほぼ間違いなく後者の方が上に来ている印象があります。

その点において,共感を得る方法論としての技術みたいなものはある程度あると思います.ただこれも限定的で,あとはやっぱり経験と才能,そして前述のように不測がゆえの運だと思います.

ということで,今のネット大喜利における実力者とは多くの人に受け入れられるボケを出す人だと結論付けられると思います.


と,簡単に結論付けてしまいましたが,多くの人に受け入れられるボケを考えるのはめちゃくそに難しいです.

なぜならば,多くの人に受け入れられるようにするとわかりやすくなっていきますが,わかりやすすぎるボケはなぜか冷めるからです.

これがなぜかが本当にわかりません.

なので,この「わかりやすい」と「わかりやすすぎない」のトレードオフの関係のちょうどいいところを見極められる人が,強い人なのかもしれません.


ネット大喜利に順位は必要か?

「今のネット大喜利における実力者とは,多くの人に受け入れられるボケを出す人である」と同時に,ネット大喜利における実力はその程度の意味しかないものだと思っています.(この辺は物議を醸しそうですが...)

先に書いたように大喜利は人間の感覚で評価されるものであり,完全な解析はできません.それに順位をつけるというのは,アートをランキングしているようなもので,もちろんある程度良し悪しはあるんだけど,あまり本質的に意味がない.

ただ,ネット大喜利の場合,「ネット上で行われる遊び」という観点から,競技性がより顕著に付加されている.そこで評価関数が必要になり,今のネット大喜利の形態だと偶然こういう得点形式になっているだけで,大喜利って個性を認めるというか,みんな違ってみんないいよね!みたいな感覚でも全然いいと思うんです。

だけど,じゃあ明日からネット大喜利は順位がなくなります!みんなでみんなのボケのいいところだけ言い合いましょう♪となったらどうかというと,少なくとも僕はネット大喜利を引退します.

結局,ネット大喜利という,競技として楽しむコンテンツだよという前提のもとでは今の形が一番理想で,その中で強い人はやっぱり強くてすごいなぁ,ということだ思います.

競技として楽しむってとこが重要で,ネット大喜利は大喜利を楽しむ場に見えるんだけど,実は競技を楽しむ場である要素の方が強い,ということだと思います.だから,大喜利に向き合おうとしてしまうと結果がすんなり受け入れられない時がある.特に今回のボケクエみたいな大会系はそうですね.

だから、上位のボケっていうのはあくまで競技としてそのボケが上に来たというだけであって、下位になったからそのボケに趣がないとかそういうことでは全然ないと僕は思います。同じ陸上競技でも距離や種目によって活躍する選手が全然違うように、評価関数が変われば、上位に来るボケは変わってくると思います。

まとめ

結局何が言いたかったかと言うと,

自然言語というのは完全な解析ができない

なので,大喜利は言語を使うという性質から予測不能な面白さがある

・ネット大喜利は競技性をより強く持たせるために順位が付くが,そこに本質的な意味はあまりない(すべってもそんなに落ち込むことはない)

強い人はすげえ

こんなコンテンツが無料でできる時代に生まれてよかった

て感じです.

完全な解析は困難であり,競技である以上,大喜利として考えすぎると壁にぶち当たるんだと思います.付き合い方としては,競技として楽しむにとどめるのが正解なんだろうと思います.


おわりに

こんな長文を全部読んでくれた方がいるのかわかりませんが,読んでくれてありがとうございました.

僕としても,ネット大喜利は結局競技として楽しむくらいがちょうどいいんだと思います.今回のボケクエがそうだったけど,突き詰めすぎるとあんまり結果にならないことの方が多い気がする.でもそれは当然だし,自分が楽しければいいのかもしれないなと思えた大会でした.

どう考えても書きすぎましたが,本質を探ってみるとこういう性質が見えてきたような気がするよ,くらいのノリで思ってください.


さいごに,ボケクエ5を共に闘ってくれたスライダーガールのみんな,スライダーガールがなければ僕はこんなに真剣に大喜利に向き合うこともなかったし,この記事を書くこともなかったです.本当にありがとう.また次の空の感謝祭で会いましょう.


ぴゅあ


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