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わたしだけの世界から、ぬけだしていきたい。

最近、だいじにしていきたいこと。
たぶん、とてもあたりまえのことしか、書いてないです。でも、そのあたりまえが、むずかしいことだと、気づいた。備忘録です。

■わたしだけの世界を生きてきた

わたしは、とても頑固。
じぶんが思う正義を手放せず、それを起点にしか動けず、わたしの価値基準で、正負、善悪を判断し、向き合い方を決めてきた。
人が思う正義に耳を傾け、ときにじぶんの想いを握りしめる力を緩めてでも、その人を受け入れたり、理解したりしようとすることができなかった。
つまり、人の話を聴いてこなかった。

そのことに気づかせてもらってから、少し、かけている「メガネ」の色を薄くしようと意識しました。
じぶんをからっぽにして、人の話を聴き、言葉をそのまんま受け止めてみる。感情や背景を考えてみる。力の乏しいわたしには、1つうしろの背景すら考えられない。

でも、少しでも意識するだけで、世界がいままでよりも鮮やかにみえるようになったんです。そこでようやく、わたしのメガネの色、くもりの濃さに、気づきました。
目の前の人、ものが、豊かにみえてきたよろこびを感じつつ、これでもメガネははずせていない、ひとりの人間として生きている限り、完全にはずすことはできない、ということを忘れてはいけないと思っています。

■「じぶん」の範囲

じぶんのためだけに生きていたんだな、と気づいた。じぶんのために生きる、それは悪いことじゃないと思っています。「じぶん」の範囲を、どこまでひろげられるか、なのかなと、今は、思っています。

家族、大切な人との関係、まで、「じぶん」の範囲をひろげてみる。

すると、たとえば、
「自信」はわたしにつくものではなく、誰かとの間に築かれるものかもしれない。この人がいるから、一緒だから、大丈夫、と思える。
「責任」はじぶんだけのものではなく、誰かと一緒に背負ったり、誰かとの間に生じたりするものかもしれない。うけとったものをだれかに受け継ぐという、生きるという「責任」は、ひとりでは果たしえないと思う。

「自信」も「責任」も「選択」も「意思」も、誰かとの関係性のなかに存在していて、確固たる個のなかだけでは完結できないんじゃないか、と考えるようになりました。

■確固たる「わたし」を手放すことができない

それでも、確固たる「わたし」がある。

生まれ落ちてから今日までに出会った人、もらった言葉、みてきた景色、触れてきた感情。それらは、唯一無二。
社会に対する違和感、こうあるべきなのではないかという正義、許せない気持ち、ゆずれないなにか、わたしがこれを解決する!という想い。

「じぶんを大事にしていいんじゃない」「我慢しないでいいと思うよ」と、言うことも言われることも多い。
でも、好きなことだけ、やりたいことだけをやっていればいいのかな?仕事となれば、苦手なことや、やりたくなかったこと、納得のいかないことにも向き合わなければいけないこともあるんだろうなと。

社会との接点において、なにかインパクトを浴びるたびに、これまでのいろいろが、ぐるぐるもやもやと、わたしのなかを渦巻き、わたしの思考をいっぱいにします。
そうやって、「じぶん」が中心の世界から抜け出せなくて、近い将来を思い描くことすらできなくて、迷子になって生きている気がします。

■「生きたいように生きる」?

わたしだけの世界を生きる。じぶんが生きたいように、大切なものを手放さずに、生きる。
じぶんが生きたいように生きたら、どこかでそれが誰かの役に立っていた。

それも、悪いわけじゃない。ただ、わたしが変わりたいと思っているのは、チームの視点、全体の視点をもちあわせるようにしたい、ということ。
じぶんが生きたいように生きることで、誰かの「生きたいように生きる」を侵害してはいないか、と思っていたいということ。

全ての人が、個人個人で勝手に「生きたいように生きる」ということは、できないのではないか。
「じぶん」はわたし個人で完結していない、自信も責任も選択も意思も、関係性のなかに存在していると思えば、「生きたいように生きる」をわたしのなかで完結することはできないのではないか。

いまの日本、世界には、生きたいように生きられない人がいる。貧困、障害、なんらかの生きづらさを抱える人。
個人が勝手に生きたいように生きればいいじゃないか、というのは、あまりに暴力的で、非福祉的なのかもしれない、と思います。

多くの人が生きたいように生きるには、それぞれが少しずつ、我慢したり、努力したり、大切に握りしめている想いや正義を手放したりしないといけないんじゃないか、と思います。

社会の課題に関心をもって、だれかの「生きたいように生きる」を支援したい人たちほど、じぶんが生きたいように生きることを大切にしている。(わたしがそうです。)
それは当然のことだと思っています。人に対して大切にしたいことは、じぶんにとっても大切なことだと思うからです。

大事なのはそこのバランスなのかなと。
相手の「生きたいように生きる」を支えるには、じぶんの「生きたいように生きる」をおさえないといけないこともある。
じぶんだけが生きたいように生きていたら、人の「生きたいように生きる」を支えることができないこともある。

チームのなかで、全体のなかで、関係性のなかで生きているから、ということだと思います。

■わたしだけの世界から、ぬけだすために

・キャッチャーであること。
それは、「ケア」なのではないかと思う。相手のものがたりに、もっと耳を傾けて、いつでもキャッチャーで在りたい。キャッチャーがいることで、口にできる言葉があると思うから。

そして、じぶんのメガネの色の濃さをいつでもたしかめていたい。
濃いせいで、相手が投げてくれたボールが見えないこともあるし、キャッチャーがみえないこともあるかもしれません。

・「あいだ」であること。
ファシリテーターは、自分の意見を主張しない。あいだに立っている。ただそこに在ることによって、そこにあるものとあるものをつなぎ、展開していく。

わたしがわかりやすいなにかを提供できるわけではない。その現場にあるものを輝かせる、だれかが「生きたいように生きる」ための場になることを、意識していたいと思っています。

・よく寝て、よく食べる。
わたしは、調子が悪いときほど、栄養不足、睡眠不足に自ら向かっていく傾向があります。人間らしい生活を失っていきます。
それは、ある意味じぶんを傷つける行為でもあり、そうすることでその時は落ち着くこともあり、次の日は罪悪感にやられます。

生きる意味、を問うこと、それが大切なことなのか、そうでもないのか、生きているうちはわからないのかもしれない。
ただ、関係性のなかで生きているということは、「生きる意味」も誰かとのあいだにあるのだと思う。わたしだけではわからないのだと思う。

だからこそ、じぶんの心身は、わたしだけのものじゃない、大切にしないといけないものなのだと思います。
今日も、よく寝て、よく食べて。



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