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生きているだけで誰かを傷つけている。

私は、傷つけた側だ。

木々の向こうには原発がみえて、手前に広がる青々とした人気ひとけのない草原には黒い塊が重なっていました。バスの車窓から見えたほんの数秒。直観的にそう思いました。

いわきから双葉まで、太平洋沿いを北上していました。
震災前の風景を私は知りません。ただ、ところどころに残る建物が、墓地が、そこには暮らしがあったことを、何百年も前からそこに息づく命があることを、想像させてくれます。

『いまだに帰れない人がいる』『12年放置された町がある』『ふるさとを奪われた人がいる』本や報道で、知ったつもりになっていました。

車窓から飛び込んでくる景色は、知ったつもりになっていた事実よりもっと生々しく、痛々しく、迫ってきました。

私は、この痛みを知らずに12年間生きてきたことに気付いて、大きな痛みと、罪の意識で、ぶん殴られました。

遅くまでPCに向かい、スマホで動画をみて、エアコンをつけて。
私が生活することと、あの原発と、この風景は、確実につながっているはず。でも、この痛みを、私は12年間、感じようとしていなかった。

人の痛みを想像しない、っていうのは、最大の暴力だと思っています。
人の痛みを想像し続ける人でありたい、って思っています。

だけど、私はこれまでも、これからも、自分が想像したいように、想像したいことだけを想像しているに過ぎないんだって、自覚しないといけないと思いました。
想像できないような痛みがこのよのなかには五万とある、気づかないところで私は暴力をふるう側になっている。
そう自覚しておくことがせめてのもの償い、せめてものケアなのではないかと思います。

そして、逆もまたしかり、
人はきっと、生きているだけで誰かをケアしている、そういう循環なんだろうと信じて、その証拠づくりをしていきたいです。


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