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ウーフ先生に教わったこと

哲学的なものが好きだ。出身大学は文学部哲学科、好きな作家は又吉直樹さん。よく言われる言葉は「考えすぎ」。
そんな私にとって、ウーフは気になる存在だった。「めっちゃいろいろ考えるクマらしいぞ」。そんなウワサがいろいろなところから聞こえてきた。え?あの顔で!?人はギャップに萌えるものだ。

くまの子ウーフ…ちっちゃい目の、気になるあの子のお話をいちどきちんと読んでみたいな、と家族を誘ってみた。

一緒に読むのは小6娘、小3息子、夫。今回は、(「おやつ食べながら読書感想文書こう」の言葉に誘われて参加する)息子の集中力を考えて、タイトルが気になってしょうがない「ウーフはおしっこでできているか」の章に絞って、4人同時に、じっくり読むことにした。

ウーフに憧れる私と子ども、批判的な夫


子どもたちは児童書を一緒に読むにはもう大きくなりすぎたかしら?なんて読みはじめる前は思っていたけれど、まるでそんなことはなかった。

あまりにウーフの思考回路が素晴らしすぎるのだ。ウーフ先生と呼ばせてください!そんな気分だった。

子どもたちもそう思ったよう。

息子のメモには

拙い表現から、たくさんのことを考えるウーフに驚いた様子が見て取れたし

自分の考えの至らなさを痛感したようだ。

娘は、

自分で考えることの大切さをウーフ先生に教わったらしい。

インターネットで何でもすぐに調べられ、「正解」が分かってしまう今、自分で考えるということからわが子たちは遠のいてしまっていたようだ。そんな子どもたちからすると、ウーフはすごくかっこよく見えたみたい。

2か月ほど前、ラジオの「子ども科学電話相談」を聞いていたら、5歳の男の子がこんな質問をしていた。

「どうして海は塩辛いの?ぼくは、さんまやあじのしょっぱいのから出てきているのだと思う」

著名な大学の先生たちを前に、自説を投げかける様子はとても勇ましく、私はいっぺんにこの子のファンになってしまった。ウーフがいろいろと考え、家族や友達に披露する様は、このときの「この子、かっこいい!」に通じるものだった。

私と子どもたちには、ウーフはヒーローに映った。

しかし…

世の中には同じ考えの人だけではない、というのを家族4人の中だけでも痛感したのが、夫の感想文だった。

めんどりはウーフが来るたびに卵をあげると言っている。めんどりは決してウーフに卵を食べて欲しくて産んでいるわけではないのに、なんと慈悲深いんだと思った。その慈悲深さというのは、妻が料理をして失敗した部分は自分で食べ、美味しくできた部分は自分以外の家族に出す行動と似ているのかもしれない。
そんな慈悲深いめんどりに対してウーフは「めんどりは、たまごでできてるんだ。」と言った。これは毎日料理をしてくれている妻に「妻は、私(家族)に料理を作るために存在しているんだ」と言っていることと同じではないだろうか。その時、めんどりが何か言おうとしたことは何だったのか?無神経なウーフを激しく罵倒したかったのではないだろうか。
この本を読んで、めんどりの辛さ、せつなさが私の体に染み渡った。これからは、相手の立場に立って考えようと思う。

ウーフ先生をまさかの無神経扱い…。ここで我々のヒーローをけなされたと怒ってはいけない。確かに、めんどりから見たら、ウーフはデリカシーのないことを言ってるかもしれない。

1つの物語を家族4人で読んであれこれ話すのは、とても刺激的だ。

私の悩みとウーフの学び


私がウーフに惚れたのは、その学びの姿が、とても美しいところ。

「自分は何でできているのか?」ー私自身、子どもの頃には考えもしなかったけれど、大人になればなるほどこの壮大なテーマで悩むことが増えた。ところがくまの子ウーフは、短時間で、何とも鮮やかに解決しているではないか。

ぼく、なにがなんでできてるか、すっかりわかっちゃった。
「それなら、めんどりは、たまごでできてるんだ。」
「やっぱりさ、ぼくがおしっこでできてるのはへんだよ。ぼくがおしっこなら、おしっこが、足がいたいなんて思うかなあ。」
いたいっていってるのは、ぼくだよ。ウーフだよ。

疑問に思って、仮説を持ち、周りからの意見で再度考え、直面する環境から学び、確固とした持論にたどり着く。ウーフは「学ぶ」を地でいく。すごいな。

私はウーフのようにあっという間に学ぶことができなかったから、42歳になる今まで、「私は何でできているか」でずいぶん悩んできたように思う。

結婚と同時に仕事を辞め、知り合いもいない地方に引っ越してきたら、自分だけ世間から取り残される感じがして「私って何なんだろう?」と落ち込んだ。話すのは夫だけだし、働いていないから、世間に評価されるものは何も生み出さない…。新婚の夫には言いづらい、悶々とした悩みだった。

働いて、世間に出ればこの想いは解決されるのかと思っていたけれど、やっぱり「私って何なんだろう?」の想いは変わらずあった。今でも、自分が生み出した仕事の成果物に満足してもらえなかったとき、私はとてつもなく落ち込む。自分が生み出したものが受け入れられなかったとき、自分も受け入れられなかった感じがしてしまうのだ。

今回、このお話を読んで学んだのは、私は今まで、めんどりはたまごでできているし、ウーフはおしっこでできている、と思っていたということ。生み出すもの=自分、と思いがちだったことに気づかされた。

ウーフはそうじゃないという結論に至る。

ころころころがると、ウーフのせなかとおなかのまわりを、青い空と、やわらかい草が、かわるがわるにぐるぐるまわりました。

自分の周りを取り巻くものに身を任せることで、自分が主軸にあることを実感する。

ころがってかえるなんてすてきなこと、なみだも、ちも、かんがえつかないさ。
ぼくでできてるの。ウーフは、ウーフでできてるんだよ。

きんぽうげの花や、気もちのいい風や青い空がなければきっと考えもしなかった「ころがって家まで帰る」ということ。自分を取り巻く環境がすばらしいと感じて、そこに身を任せたとき、ウーフは自分というものを感じることができた。入ってくるものでもない、生み出すものでもない、「考える自分こそ自分」と分かったウーフを見て、私ははっとした。

ちょっとウーフの気持ちが分かる気がするんだ


私は相変わらず悩んでいるけれど、最近、ちょっとウーフが最後に感じたのと似た感覚になることがある。自分にできた家族。ご縁が繋がって出会った仕事の仲間やお客様。その人たちの存在に包まれてあぁ心地よいなぁと思うと、その中にいる自分の存在が確立してくる気がするのだ。

例えば、私がキナリ読書フェスに参加したい!と言ったら面白がって参加してくれる夫と子どもたち。

例え息子の感想文が、音声入力したこれだけだったとしても。

マイペースな息子は、私にとっては「野原にふく、気持ちのいい風」のようなものだ。彼は彼なりに生きているが、それが私にとっては気持ちがいい。

律儀に原稿用紙に感想文を書く娘は、「きんぽうげの花」だ。がんばりやさんの娘は、小さな花をたくさん咲かせて、見ている私を幸せな気分にしてくれる。

私は、ウーフのように、小さなことに目をつけ、不思議に思うことを解決しようとしたことがない。ウーフが考えた、「たまごをわると、いつもきまったものが出てくる」ということも、私は「当たり前」だと思っていた。だがウーフは、それを当たり前と思わずに、一つひとつに感心しているのが、素晴らしいと思った。また、めんどりが何でできているかなども、もちろん私は考えたことがない。めんどりには、たまごが百個以上はいっているとウーフやめんどりは言っていたが、私はそんなに入っていたら、おなかが破裂してしまうと思う。だから、ウーフとめんどりの考えは、私とちがうのでおもしろいと思った。人や動物が何でできているかというのは、自分で考える前に、学校の授業で習ってしまったので、そのような発想がなく、当たり前だと思ってしまうのかもしれない。だから私は、正解を知る前に、自分でよく考えることが大切だなと思った。

ウーフ先生から学んだら、学校教育に疑問を持ってしまったよ。

そして…まるっきり私とは違う感想をもつ夫は、私にとっては、青い空のような存在なのかもしれない。ずっと交わることがなく、でも自分の上にずっとずっと広がっていて、毎日見続けて、その存在のおかげで明るい気分になれる。

そんな家族に囲まれて、私はころころころと転がっている。

転がっている私が私。

家族みんなでくまの子ウーフを読まなければ気づかなかったことだ。

ウーフ先生、ありがとう。
機会をくれた岸田奈美さん、ありがとう。

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