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既視感


昨日「絵に正解があって〜」って自分で言いながら自分でも違和感を感じていたのでメモ
確かに学校だと評価をつけないといけないから正解(のようなもの)が絵に存在しているけど、本来絵に正解はない…
ただ、正解が無いというのもなんか引っかかる
多分言葉選びを間違えていた。
フレンドが言っていたように自分は第三者の良い評価を正解という言葉で表現していたかもしれない

美術学校に通うって常に第三者のジャッジが下される場で作品を作る事でさ…
自分でも分かってたけど、(分かってるからこそ美術の大学選ばなかったんだけど)表現したいものが盤石に固まっていないというか存在していない状態で評価が成績に影響してくるようなところにいたから自分でも無意識のうちに評価が表現したいことより大事な基準になってしまっていたんだなって気づいた。しかも!第三者から良いって思ってもらえるような作品を意図して作れたから!!全然認められなかった。
第三者と自我を行ったり来たりしながら描いてるのでデッサンは得意です。第三者さんは絵を見るであろう人によって変わってて、第三者さんと自我さんが二人ともが良いねって言ったら完成っていう作品の作り方してました。
満足してた!!褒められるから

ただこの考え方別に悪くない気がしてる。問題は自我さんの方にある。自我さん育つの時間めちゃくちゃかかりそう〜〜(´・_・`)今まで無視してきたツケが回ってきちゃったね…更にいろんなもの見て、調べ癖をつけて、なんで好きなのかたくさん考えて自我さんを立派に育てます!




でっかい富士山見てスゲーーーーー!!ってなって富士山を好きになるように、パワーのあるイラストにすげーーーーー!!💓💓💘💘ってなってイラスト好きになってる説ある
ああ…いままでで一番しっくりきた、私、パワーのイラスト描きたいです(パワーイラスト描くって…(いくまでいっちまったら人の形保てないじゃんね…??(ピグレットの顔(猫が頭抱えてるやつ))))


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