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第二次世界大戦におけるマリアとは誰か

「残念ながら、この戦争は日本の負けです。8月15日には終戦になるでしょう。それは、宣戦布告が12月8日、マリア様の無原罪の御宿りの祝日だったから、8月15日、マリア様の被昇天の祝日に終結するのがふさわしいからです」

終戦3日目に、横浜の保土ヶ谷教会(被昇天の聖母)で射殺された戸田帯刀神父のことばであり、神父は5月1日から50日間、聖母像の前で、0時から2時までファティマの聖母にとりつぎの祈りをささげた後で、8月15日が終戦であると預言したといわれています。終戦より前のことでした。

ファティマの聖母の顕現は、1917年ポルトガルのファティマという小さな町で、子どもたちの前に現れた聖母らしき存在であり、カトリック教会が公式に認めているもの。聖母の預言には、第一次世界大戦の終戦と、第二次世界大戦についての預言が含まれています。このため、平和を願う神父がファティマの聖母にとりつぎを願ったと思われます。
ちなみに聖母マリアにはいろんなヴァージョンがあり、その折々にふさわしい聖人に祈りをとりついでもらうというカトリック独特の風習があるため、(癒しであればルルドのマリア様など)戦争の終結を求めていた神父の場合はファティマの聖母だったと思われます。

この戦争において、戦争の悲劇、戦争犯罪とされる大きな被害を受けたのが、広島、長崎、東京(大空襲)と、ドレスデン大爆撃と言われており、毎年バレンタインデー近くになると、カート・ヴォネガットのスローターハウス5を読んで知ったドレスデン大爆撃を思い出すので(2月13-15日)、ふとその4か所における聖母マリアとのかかわりについて書いてみたいと思いつきました。

長崎 浦上天主堂(無原罪の聖母)
江戸時代から明治になっても、宗教弾圧を受け続けながら信仰を守ってきた隠れキリシタンの方々が、フランス人宣教師フレノー神父の協力を得て1914年に建てた教会。その時に、イタリアから2メートルの木造の聖母マリア像が贈られました。
教会が原爆によって壊滅したのちに、焼け跡から頭部が発見され被曝マリアとして展示される事となりました。
2メートルもの像を海外から贈るという発想に驚きますが、そこまで大きかったからこそ、被曝に耐えたのかと思うと、被曝はこの像が持つ運命的なものだったのかなとも思ったり。

被曝マリア
浦上天主堂
(あら、ケムトレイル??)


東京 東京カテドラル聖マリア大聖堂
1899年、聖母仏語学校の付属聖堂として創建
1920年、築地教会より東京の司教座(カテドラル)として変更
1945年、東京大空襲により焼失
1964年12月8日 丹下健三氏の設計による東京カテドラル聖マリア大聖堂が献堂。無原罪の聖母に捧げられた。

東京カテドラル聖マリア大聖堂
(あら、ケムトレイル?)


ドレスデン 聖母教会
聖母教会は、ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト1世がローマ・カトリック教会信徒だったにもかかわらず、福音主義教会(ルター派)の大聖堂として建築されたプロテスタント教会。その強固な特徴的なドームは、1760年の七年戦争中、プロイセン軍によって発射された100発以上の砲弾に被弾するも、砲弾を跳ね返し教会を維持したと言われる、ドレスデンの象徴的な建造物。
1945年2月13日から二昼夜の攻撃に耐え、巨大なドームを内側から支える8本の砂岩製の柱は、都市に投下された約650,000の焼夷弾の熱に曝される中、教会の地下聖堂に避難場所を求めた300人の避難者が退避するまで持ちこたえ、2月15日午前10時、ドームは倒壊しました。
その後市民による資金調達と再建活動により、外部の完成は2004年、屋内は2005年に完了という60年に渡る再建となりました。

ドレスデン大爆撃後の
市庁舎から撮られた有名な写真。
現在の聖母教会
(あ、ケムトレイル⁈)

聖母教会の公式ホームページ
日本語で読めます。


広島 ファティマの聖母像

広島の世界平和大聖堂(カトリック幟町教会)には上記3か所に見られたような聖母色は見受けられませんでした。(教会の保護者が聖母であるなど)
広島に最初にキリスト教会が建てられたのは、毛利氏が本拠を構えていた1599年頃との事。幟町教会は明治時代に建てられた和風の教会で、幟町天主公教会という教会でした。1945年8月、その時直接被爆したドイツ人主任司祭フーゴ・ラッサールは、この地に原爆犠牲者を弔うだけでなく、全世界の友情と世界平和を祈念するための聖堂をあらたに建設することを思い立ち、1950年8月6日に着工され、1954年8月6日に完成、献堂され「世界平和記念聖堂」と命名されました。
4都市のうち、一番聖母色のない教会と思っていましたが、ファティマの聖母出現から100年の2017年に、ファティマの聖母像が広島の世界平和祈念堂へ寄贈されたという事が特徴的なつながりとなったかと思います。確かにファティマの聖母像を置くにふさわしい教会なのかもしれないと思いました。

広島教区を巡回した
ファティマの聖母像

ファティマの聖母像グッズが買える
ドンボスコ社のページ

壁掛け


以上の第二次世界大戦における被害のひどかった4都市における、象徴的な聖母マリアとの関連が気になったのでまとめてみました。
ファティマにおいて預言されただけではなく、そこに象徴的な存在としての聖母マリアのモチーフがある事に驚きます。
第二次世界大戦とは結局何だったのか、聖母の警告とは何か、今まで教科書で習ったり情報として持っていた、第二次世界大戦に対するとらえ方や視点に変更を迫られるような印象を持ちました。
ただ、自分にとっての聖母マリアは、あるいは、キリスト教における聖母マリアの位置づけとは、信仰、礼拝の対象ではないという大きなポイントがあります。帯刀神父も聖母に祈りのとりつぎとして、聖母像の前で祈ったとあるように、カトリックで聖母マリアは祈りをとりつぐ存在としてとらえ、プロテスタントでは祈りは神に直接祈るので、祈りのとりつぎという概念がそもそもありません。聖人という概念もカトリックのものです。奇蹟やしるしを多く起こしている聖母マリアですが、神ではない、というのはカトリック、プロテスタントともに譲れない大事なポイントではあります。

ですが第二次世界大戦の預言からの各地での象徴的な聖母マリアに関する出来事は、容易に辻褄を合わせられる事ではないのではないかとは思うので、信仰対象ではないものの、軽んじられない大きな存在だなとあらためて思うのですが、どうとらえたらよいものか。
そしてここまでまとめを書いている時に、母から電話があり出てみると、自分が人生最初にマリア様という存在を知ったきっかけになった母の友人(娘さんがマリア幼稚園へ通っていた。わたしは仏教系幼稚園)と昨日出かけたという話を聞かされ、(いつもは話に出てこない)このタイミングで?!というのが驚きで、やはりマリア様というのはよくわからんけどパワフルだな~と思いました。

ドレスデン大爆撃の日に寄せて。

(教会の写真を探していると、ケムトレイルらしきものがいくつか写っていたので選んで見ました。特に意味はないです)










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