自分で勝手に怪我をして、他者からの優しい言葉を求めるという自分勝手

いや、きょう、ごりごりに怪我したんだよね。田んぼのあぜのごっそい、ものごっそい草たちを、南無阿弥陀仏的な気分を多少持ちながらも、ばっしばし、刈っていた。いや、刈り方が雑なんよね、うん、それは意識してた。しかし、あまりにも自由に育った草たちで、雑に、派手ーに、ごりごりと草を刈っていたら、あら、不思議、左足の長靴が切れてますよ。

まあ、うん、自分の道具の使い方の勉強不足、注意不足、心ここにあらず、集中力不足、まあ、しかるべくして起きた事故なんだが、そのあとの行動は、まあ、自分で言うのもなんだが、緊張感と落ち着きのバランスが良く、病院でもおとなしく1時間以上待ち、「男の人は痛みに弱いから、気絶しちゃう人もいる」的なことを2回言われ、まあ、麻酔注射は確かに痛かったけど、感じきれば耐えれるもんで、俺って痛み耐えれる男じゃね? なんつて、医者が縫合中「今年は忘年会的なものはないのかな?」とか雑談してるの聞いても穏やかに、ああ、医療の素晴らしさよ、と感じた。看護師さんも優しく、さて、バイト先に、明日、明後日休ませてください、と伝えたとき、お見舞いの言葉がなかった!!!

そう、他人の優しさを期待していたんである。

なんて自分勝手な!と自分で衝撃を受けた。先方にとっては、うん、迷惑に思う気持ちが強いだろう。休みだったのに出勤しなきゃいけない、予定もあったろうに。ところが、「お大事に」という言葉を期待していた自分のなんてエゴイスティックなことよ!! こうあるべき、こうして当然、なんて、考えてた自分が恥、さ、さ、さ、さ、さー。どんだけ自分、自分、自分が強いんだろう。申し訳ない、迷惑掛けた、うん、それ、感じすぎるタイプじゃないから、まあ、自己嫌悪ってことはなかったが。でもよ。

心は水のように。

うん、怪我、父に送ってもらい、病院で救われ、丁寧な術を受け、意外と5000円で済んじゃうっていう医療に感謝、で、仕事への迷惑、穴をあけ、代わってもらう。つながってんだよな、どうしようもなく、自分、自分じゃ、とてもやってけない。誰かの、いきものの、何かの、おかげさまで生活、生かしてもらってる。それ、資本主義高度分業社会ですべてが商品だと思い込んでいては忘れがち、拝金を嫌いつつも、毒されてたんだ。もっと謙虚に。ただ、卑下する必要はない、まあ、自分の過失で、しょうがない、とも言えるし、人はそんな甘くない、とも言えるが、もっと甘くなって! 優しくして! と叫ぶのはどうなんだろう。それって、まさに自分の糞を自分で気張れてない状態である。猛省。そもそも、自分がそんなに人に温かい、優しい言葉を掛けたり、謙虚に譲ることができてるか?? 人に自分勝手な要求をする前に、人に与えてない、自分は「お見舞いがない」と嘆く資格なんてない、っていうか、期待し、求めている自分って、なんだ?? エゴ=自分、が、いる。これ、無常な自己なんで、確かなものじゃなく、つか幻想で、うん、無我なんだからさ、最近、仏教かぶれなわちきは、いかに、他者の親切を当たり前だと思ってたかっていう、気付き。いや、いつもちゃんと会計終わったら毎回「ありがとうございます」って言ってるんよ、最近は、言うようにしてる。それを、もっとすべからく実践すべきなんだあああああよね。置かれた場所で咲きなさい? 的な発想?

水のような心を持つことで、その水面は何を写すか、どんな形になるか、水度はどうか、それは水なのであれば、自分なんて、意思なんてものは反映されないはず。選べないこと、足の傷だって、もっと穏やかに受け入れることができるはずだし、甘受すべき。ただ、環境、体には、逆らわずに委ねる、それだけなのだ。土曜日には出れますか? という一言には、ただ、気遣ってくれているありがたさを、まず、感じるべきだ。

気付きがあったという、価値があった、草刈事件。

YES

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?