自分の糞は自分で気張るがよろしい。

野口晴哉の本など読んでみているが、自律的に不調に向き合いましょうという根本がいいよね。どうしても対処療法的な医療に毒されてしまっているから、さあ、自分の体の判断を他者にゆだねてしまって、言い付け通り養生するのが現代医療。自ら奴隷になってしまう傾向も似たようなところがあるかもしれない。彼らの言説を鵜吞みにしたところで、畢竟、自分の糞をするのは自分。彼岸で何してたって、それがいかに、関係せよ、関心せよ、感動せよと言ってきたって、やることなすことに干渉されるのはごめんだし、ごめんね。

新宿駅でスローガン「心を一つに」、は?

人が戻ってきた。自粛期間中にしっかり習慣化してしまったオナクラへ向かう道すがら、あ、人の気が多いことで、自分も覚醒モードに、お祭りモードに入っちゃうんやな。都会の喧騒ってやっちゃ、めちゃくちゃ心理状態に影響してくるじゃん。いるだけで緊張を強いられる。人、多ければ、多いほどに。プライベートな自然空間=持ち山で過ごす時間が多くなり、チルしてる時間を大事にするようになると、どうも、他人がいることに対して敏感に反応している状態に気付けるように。

前、頭がいかれたbabyになったのだって、人の気にさらされ続けて、それで興奮し続けてるとも気付かずに、頭に意、気、血が巡りオーバーヒートしてしまったんである。

さて、自分の糞を気張れない、自分のなすことを他人の物語にゆだねてしまうような大衆奴隷は、結局、人の中にいるから、そうなってくるんだろうかと。公園は確かにチルできる空間であるが、きょう、自然空間でチルした後、鯉を見に行ってみて気付いた。人目に合わせて、自分の行動を評価し、調整していること。それって、どうにも疲れるもんだから、きっと吾のごとくオーバーヒートしないよう、みんな、動きたいように動くことをやめ、自ら規格化し、窮屈なのを我慢して規格に合わせてるんだから、彼だけが自由にしてるのが許せない。また、マニュアル通り生きてるんだから、保障してよね、なんて、糞は土に返さずに、下水処理場へ。それ、本来、当たり前じゃないかんね。

つか、人の意思を介在した物に囲まれて過ごしてると、人の意識側からしか物事を見られなくなる。なんでも、専門家が解決可能な問題だと思ってる節があるのかも。

人の中にいながら、かたくならずにいられる技術っていうのが、どうやら愛ってやつらしい。愛って、なんだよ! うぼーってのが最近。

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