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素敵なプロジェクトと悲惨なプロジェクトとチェリーパイ(2/3)

㊃金物まるよんかなものまたの名を震洋しんようと呼ばれるそれは、大戦末期に日本海軍が開発した特攻兵器です。

ベニヤ板で作られた小型のモーターボートで、トラックのガソリンエンジンで動きます。
震洋の舳先へさきには250kgの爆薬が積まれており、敵の艦船に体当たりするのです。
自動車のエンジンとは言え、当時の日本の技術で作られたエンジンは性能も低く、燃料も質の悪いガソリンしか用意できなかったため、予定速度が40km/hぐらいのところ、20km/hぐらいしか出なかったそうです。

震洋。船首のD字型の蓋を開けて爆薬を積みます。

特攻兵器の是非をここで語っても仕方無い事なので、それはひとまず置いておきます。

大戦末期、日本軍は敗走に次ぐ敗走を重ねていました。
やがて米軍は本土に上陸してくる事は間違いありませんが、もう迎え撃つ艦船もありませんでした。
そこで考えられたのが震洋です。

資源が底をついていた日本で、ベニヤ板で作る事ができ、エンジンは流用できて、大量生産が可能な兵器だったのです。

しかしこれを考えた担当者は、米軍の兵力と物量をわかっていませんでした。
上陸を試みた大きな輸送船が、一隻で海岸近くを航行していれば攻撃も成功するでしょう。
しかしそんな事はあり得ません。大量の軍艦が夜も真昼のごとく照明弾を間断無く打ち上げ、少しでも動くものがあれば、たちまち機関銃弾を浴びせかけてきます。
そこへ20km/h程度しか速度の出ないボートが、けたたましい音を立てて進んでいけば、結果は火を見るより明らかです。
また脆弱な船体は、外海を航行する事はできません。
せいぜい波の静かな湾内でしか航行できません。

こうはいかない・・・ハズ

同じ死ぬにしても、命と引き換えに間違いなく敵を倒す事ができる、そんな兵器ではなく、どうせみんな死ぬんだから一気に100隻で特攻すれば1隻ぐらいは成功するんじゃないか?
そんな悲しい兵器なのです。

特攻兵器は機密を守るために、マル1からマル9までの秘匿名称で呼ばれていました。
震洋は4番目の特攻兵器という事で㊃金物と呼ばれていたのです。

米軍の上陸に備えて、全国各地に震洋の特攻基地が作られました。
その数は実に147部隊にもなります。
そしてここ、宮戸島の鮫ヶ浦にも基地が作られたのでした。

もともと外海から船でしか行けないところでしたが、基地の開設とともに例のトンネルが掘削され、陸から行けるようになりました。

途中で写っていた漁具などが入れられた横穴は、全て震洋を格納するための掩体壕えんたいごうだったのです。
写真は数枚しか撮っていませんが、周辺に十数個の掩体壕があります。

しかし、幸か不幸か宮戸島の第146震洋特別攻撃隊は、開隊が1945年(昭和20年)7月25日と遅く、出撃することなく終戦を迎えました。

その後鮫ヶ浦は基地の設備を流用して、漁港として使われました。
写真に写っているレール(スリップウェイ)と台車は、てっきり震洋を移動させるものだと思っていたのですが、戦後に漁船を移動させるために設置されたという情報もあり、何に使用されたかは、はっきりとしません。

レールには錆びた台車が乗っています。これに震洋を乗せて移動させた?
レールの先は海の中に続いています
正面に先ほどのレールが見えます。右の茂みにも掩体壕があります。
入り江の外は太平洋。見えませんが正面には石巻の町があります。

ただ、コンクリートで作られたスロープや掩体壕は、間違いなく特攻基地として戦時中に整備されたものです。

これが悲しいプロジェクトの今に残る痕跡です。

プライベートビーチのような、外海と隔絶された人も来ないような静かな入り江ですが、不気味な隧道、至る所にある掩体壕、さび付いたレールなど、あまりにも対照的で、異空間に迷い込んだかのような錯覚を起こします。

こうしてひとしきり辺りを見て回った後、二度と来ることは無いであろう、鮫ヶ浦を後にしました。

来た道を引き返します。この先のカーブを曲がるとトンネルです。

こうして元の漁港に戻ってきましたが、時間は丁度12時。
お腹も空いたことだし、食事をして松島に寄って帰ります。

思いのほか長くなってしまったので、次回に続きます。

つづく

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