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【プチ史跡巡り】寺とトンネルと悲しい物語(3/3)

今まで元禄潜穴の話をしてきましたが、もう一つ明治潜穴なるものがあります。
これもその名の通り、明治に着工されたもう一本の潜穴です。

青いのが明治潜穴
歩道橋から川を望む

先ほど見たこの川は明治潜穴から続いています。
そしてこの橋には明治潜穴を作るにあたっての秘話があります。

この橋

先ほどの広場の看板にはこう書かれています。

東宮殿下一分間停車記念の碑
明治潜穴工事施工にあたっては、工事続行派と工事中止派との対立の中、中止派の感情が根強く残っていた。
 明治41年10月に東宮殿下(のちの大正天皇)が、奥州地方を行啓ぎょうけいなされるということを知り、鹿島台村長鎌田三之助かまたさんのすけ氏は、東宮侍従に願い出て殿下の代理人の方の視察を切望した。
 ところが、東宮殿下御自らご台覧たいらんとの報告を受け、鎌田村長はじめ工事施工派は大喜び、明治41年10月13日午後3時40分、根廻上山王地内の鉄橋上にお召し列車が1分間停車しご台覧の栄を得たのである。当時お召し列車が停車場以外に停車する事は絶対にあり得ないことであった。
 東宮殿下よりのお言葉
  「天下の大工事である。中途挫折の事なく竣工せしめよ」
 これ以後工事関係者に動揺はなくなり無事に工事が完了している。

読むのが面倒な方向けにざっくり説明すると、

明治潜穴を作りにあたって、推進派と中止派で揉めていました。
そこで鹿島台村の村長が一計を案じて、岩手県へ行く大正天皇(まだ皇太子)の御付きの方に、道中で工事を見てもらって推進派の勢いをつけたいなとお願いしたところ、大正天皇が興味を示されて、列車を橋の上で停めて現場を視察し「工事をやり遂げなさい」と言ってくれたので、その後スムーズに工事を進める事ができた。

という事らしいです。

広場の看板

この歩道橋こそが当時の鉄道橋なのです。
タイトルの画像に使っている看板の写真に写っている鉄橋です。

歩道橋の向こうに東北本線が見えていますが、これは後に作られたもので、当時はまだ単線でこの歩道橋に線路があったのです。
今を去る事115年前、この橋の上にお召し列車が停まり、工事の様子を東宮殿下がご覧になられたのです。
 
ちなみに説明の中に出てきた鎌田三之助なる人物ですが、宮城県では有名な人です。
品井沼の近くにある鹿島台村の村長を38年も無給で努め、品井沼の干拓に尽力した方です。どこへ行くにもわらじ履きだったので「わらじ村長」と呼ばれ親しまれました。
村の財政の立て直しにも尽力しましたが、終戦後に公職追放となり村長を辞しました。

鎌田記念ホールホームページより わらじ履きの鎌田三之助

では、今来た道を引き返して、最後に悲しい物語とはどのようなものだったのかを見てみましょう。
 
先ほどの第6ずり出し穴の少し先に小さな公園があります。
その中には小さな祠があり、お地蔵様も祀られています。
このお地蔵様は「おまん地蔵」と呼ばれています。

小さな公園の中に祠が
この小さな風化したお地蔵様が おまん地蔵

元禄11年(1698年)に完成した元禄潜穴でしたが、土のトンネルという事で、崩落が起きたり土砂が堆積したりで使えなくなる事がありました。
そのため何回か大規模改修が行われています。
 
享保11年(1731年)の改修工事の時、人夫頭が見積を誤り大赤字を出してしまいました。このままでは賃金が払えなくなってしまうため、人夫頭は潜穴の中に人夫を集めて酒を飲ませると水を流して人夫たちを殺してしまいました。
この中に16歳だった「おまん」という歌の上手な少女も含まれており、哀れんで建てられたのが「おまん地蔵」だと言われています。
 
さらにもう一つ、今回は道が悪いので訪問しませんでしたが、この近くに墓山はかやまという山があります。
そこにも元禄潜穴最大の悲劇が伝わっています。
 
最初に登場した大越喜右衛門おおこしきうえもんを覚えているでしょうか。この工事の責任者です。
喜右衛門はこの難工事を5年がかりで成し遂げました。
 
完成した時に伊達藩主伊達綱村だてつなむらが視察に来る事になっていました。
そこで元禄潜穴の落成式を行うはずでしたが、前日に当地は大雨に見舞われました。一帯は増水してこのままでは落成式どころか藩主に危機が及ぶ可能性があります。
 
喜右衛門は30kmほど離れた仙台まで、大雨の中を早馬で向かいました。
なんとか仙台までたどり着きましたが、藩主の行列は仙台城を出たところでした。
事情を説明して藩主は城に戻り事なきを得たのですが、当時は今と価値観が大幅に異なり「藩主を惑わせた」として、喜右衛門とその部下6名は元禄潜穴の落成を見ずに墓山で切腹して果てたのでした。
 
今の時代ならば、身の危険を顧みず藩主に急を知らせたとして褒美の一つも貰えるのではと思ってしまいますが、人の命が軽かった当時は理不尽な論理がまかり通っていました。
誤解の無いように書いておきますが、主命で切腹したわけではありません。
周囲の人たちの圧力によるものです。
「城を出た殿さまを引き返させておいて、よくものうのうと生きていられるな」的なやつです。
 
喜右衛門といいおまんといいやりきれなさを感じます。
 
今回は立ち寄らなかったのですが、明治潜穴の写真も載せておきます。

こちらは公園として整備されています

そんなわけで、平安時代のお寺から始まり、江戸、明治の工事とそれにまつわるお話をぎゅうぎゅうに詰めたプチ史跡巡りはこれでおしまいです。
次はどこに行こうかしら。

 おしまい

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