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姉妹の仇討ち(前編)

今回は宮城県に伝わる、姉妹の仇討あだうちの話を追って、福島県境にある白石市しろいししに行ってきました。

皆さんは白石噺しろいしばなしと呼ばれる、姉妹の仇討ちのお話をご存じでしょうか?
これ、話としては実によくできた面白い話なのです。
白石を治めた片倉家と白石城のことも含めて書いていきたいと思います。

まずは白石市の位置関係です。

仙台から車で1時間20分 高速道路で40分ぐらい

白石には白石城というお城があります。
ここは代々片倉家が治めてきました。片倉家といえば伊達政宗の懐刀として知られる片倉小十郎景綱かたくらこじゅうろうかげつなが有名です。
またその息子の鬼小十郎おにこじゅうろうと呼ばれた重綱しげつな(後に重長しげながと改名)も有名です。

どっちも小十郎で紛らわしいなと思った方がいるかもしれませんが、実は片倉家は代々小十郎を襲名するので、江戸時代に11人の小十郎がいたそうです。

この重長は大阪夏の陣で活躍するのですが、この時にその奮戦ぶりを見た真田幸村さなだゆきむら信繁のぶしげ)から、大阪城落城の前夜に子どもと家臣の保護を依頼されています。
阿梅おうめと穴山小助の娘、また京都に隠れていた阿菖蒲おしょうぶ、おかね、大八だいはちです。

なんでも阿梅は何者だかわからないまま片倉家で侍女をしていたところ、幸村の家臣が訪ねてきて、初めてその身分がわかったそうです。
阿梅は後に重長の後妻になっています。
阿菖蒲は田村定廣たむらさだひろに嫁ぎ、大八は元服して片倉守信かたくらもりのぶと名乗りましたが、子の代には真田性を名乗るようになりました。
こうして名将幸村の血は大坂夏の陣で絶えることなく、奥州の地に残ったのでした。

さて片倉家の治めた白石城ですが、江戸時代に一国一城令が出された後も残されて明治維新を迎えています。その後破壊され120年後に再建されました。
実はどうして白石城が一国一城令による取り壊しを免れて明治維新まで残ったのか、その理由を僕は知りません。
何を調べてもそのあたりがはっきりしないのです。

片倉家の説明はこれぐらいにして、本題の仇討ちに入りましょう。
白石市のホームページやその他観光案内のサイトを見ると、この仇討ちの錦絵がお寺に保存されていると書いてあります。
どれも出どころが一緒とみえて「専念寺所有の貴重な錦絵からうかがい知ることができます。」という同じ文章が載っていますが、特に普段から公開しているわけでも無いようなので、うかがい知ることはできません。

法隆寺の国宝 聖徳太子像の御分身が祀られているそうで、開帳の日に見る事ができます

お寺のすぐ近くにある旧商家で和紙を使ったイベントをやっていたので、何の気なしに立ち寄ってみました。
すると錦絵のレプリカがあるではないですか!

これはラッキーでした

ここで家内に仇討のあらすじを説明してから白石城に向かいました。

天守閣
入り口には奥羽越列藩同盟旗が

白石城にはすぐ隣に歴史探訪ミュージアムという施設があります。1階が食事処とお土産屋さん、2階が資料館、3階が3Dシアターになっています。
お城の入場券と3Dシアターと武家屋敷の拝観券がセットで800円なのでそれを購入しました。
武家屋敷は数年前に見ているので、今回はパスです。

この3Dシアターでは3つの映画が上映されているのですが、実は13時からが姉妹の仇討ちのお話を上映しているのです。
観光地にあるこういうシアターは大した内容では無いことが多いのですが、この歴史探訪ミュージアムの三作品は全くの別物、というより普通にきちんとした時代劇です。
今回見ようとしている仇討ちのドラマは5年程前に撮りなおしたばかりだそうです。
一人だったら全部の回を見ていたと思います。

何せタイトルからしてそそられます。
1.奥羽越列藩同盟秘話「賊にはあらず」
2.大坂夏の陣秘話「鬼小十郎帰るに及ばず」
3.奥州白石噺「宮城野・信夫 娘仇討ち」
どうです?見て見たくなりますよね。

しかも各話30分から40分という力作ですし、話によって出演者は異なりますが、渡辺謙や宍戸錠、宍戸開に田中健に西郷輝彦などの錚々たる面々が演じています。
それが3Dで飛び出ちゃうし、悲しい事にほぼ貸し切りで見れます。
白石城に行く方は是非シアターも見て下さい。

そして肝心の仇討ちの話ですが、あらすじとしてはこんな感じになります。

百姓の与太郎と娘の姉みち妹そのの三人は田んぼの草取りをしていましたが、通りがかった片倉家剣術指南役志賀団七しがだんしちに誤って泥をかけてしまいました。
土下座をして詫びる与太郎ですが、一刀のもとに斬り捨てられてしまいます。
それを知った病床の母もショックで亡くなります。

父母の仇を取るために姉妹は江戸へ上りました。そこで由比正雪ゆいしょうせつの道場に住み込みで働く事になりましたが、正雪に問いただされて仇討ちを考えている事がばれてしまいます。
最初は反対する正雪でしたが、百姓が武士に仇討をするのも面白いと、姉妹に剣術を教えます。

3年の月日が経ちましたが、道場の門弟には歯が立ちません。
そこで正雪は百姓の武器として竹やりと鎌を姉妹に渡して、日々打ち込みをさせます。
やがて武器を薙刀なぎなた鎖鎌くさりがまに持ち替えさせ、いつしか道場の門弟たちと互角に渡り合えるようになりました。
正雪は姉妹に仇討の許可を与えるとともに、姉に宮城野みやぎの、妹に信夫しのぶという名を与えました。

正雪から仇討の許しを貰った姉妹は、道場の門弟3人を護衛につけてもらい白石城下までやってきました。
片倉家に正雪からの仇討ち状を渡すと、伊達家を通じて幕府に伺いがたてられ、やがて幕府からも正式な仇討の許可が下りました。

白石河原で片倉家の役人立会いの下、大勢の見物人が見守る中で志賀団七との仇討が始まりました。
仇討に先駆けて、姉妹には女ということで助太刀を認めるという沙汰がありましたが、姉妹は門弟たちの助太刀の申し出を断り、実力に勝る団七を相手に善戦し、最後は姉が鎌で団七の首を獲ったのでした。

その後姉妹は尼になり、静岡県の安倍川のほとりで父母と団七の菩提を弔ったのでした。

ぺれぴち要約

このお話は、歌舞伎や人形浄瑠璃の題材として取り上げられて、碁太平記白石噺ごたいへいきしろいしばなしという演目で人気を博したそうです。
今でも演じられるそうですが、ものすごく長い話なので、仇討ちのシーンを中心とした一部だけを演じる事が多いそうです。

さてこの話は史実なのか、事件があったとされる場所にも行ってきましたので、次回はそのあたりについて書いてみます。

つづく

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