舞城王太郎レビュー6日目「バット男」



どこかで表面がぼこぼこのバットを拾って手にして、自分より弱い奴を探して殴ろうとしないとも限らないのだから。


「バット男」.舞城王太郎の作品の中で暴力性が強いものがいくつかあるうちのひとつ.これが発表されたのが2001年のことで,その裏には1990年代のオウム真理教や神戸連続児童殺傷事件とかの日本の犯罪事件があるのを思い出す.

暴力がどこから生まれてどこに伝播してしまうのか,犯罪心理や暴力性について物語として向き合おうとする.舞城王太郎は奈津川三郎に「ある種の真実は、嘘でしか語れないのだ」と語らせたんだけど.それをやってのけている.物語を暴力のデモンストレーションのための媒体にしたって言い方がいいかな.

この本の構造で舞城王太郎がやったのは,語り手を暴力の傍観者としたこと.暴力や犯罪を目撃し巻き込まれてしまった誰かを語り手にしたこと.なんというか,メタ的に舞城王太郎が語り手の前に道具として暴力事件を持ってきたわけではなくて,語り手が物語として暴力に出会ってしまうって言い方が正しい.うまく言えないけど.ただ偶然事件に出会ってしまって,それで語り手が恐怖すれど殺されようと物語の一部にしかなり得ない.それは作者の演出ではないよってこと.

言いたい真実を,物語という決して現実ではない嘘で語る.裏返したら,現実で語れないことは沢山あるから物語を通して現実の問題に向き合うってこと.

バット男っていうその名の通りバットを持った異常者が出てくる.街中で高校生にバット男は殴られてるんだけど,バットを持って反撃しようとはしない.ただ殴られるだけだった.

語り手はバット男っていう弱者を見て,暴力に出会ってしまう.暴力ってのは子供とかバット男のような明らかな弱者のほうに流れていく.殴られたやつは,捌け口になりそうな自分より弱くて殴れそうなやつを探してしまう.そういう連鎖の話.自分がそこに巻き込まれたら,じゃあ一体どうなるんだろう?って話.


舞城王太郎は暴力を描こうとするっていう言い方はただしいけど,正しくなくて.暴力の背後にある心理を嘘をもって語ろうとするっていうのがわたしの考え方.


平成の1990年代はいろいろ悲惨な犯罪事件が起きたりしてそれに纏わる文学が生まれてたんだけど,2010年代は震災が起きたから命とか繋がりを大事にする震災文学が増えて,犯罪小説とかミステリは減った風に感じる.