第一巻 俺はハーレムを、ビシっ!……道具屋にならせていただきます。スカートまくりま扇編 第1話

「ビン子のやつ。また、俺のベッドで寝やがって!」
 16歳ほどの少年が背後を振り返りながらつぶやいていた。

 どうやら先ほどまでこの少年は目の前の作業台で突っ伏して爆睡していたようなのだ。
 その証拠に、おでこの上に乗る黒髪短髪には変な寝癖がついていた。
 変といえば、机の上に散らばっている作りかけの道具たちも一風変わっている。
 もしかしてこの道具は団扇なのだろうか?
 その団扇の設計図面にびっしりと書きこまれた計算式は、おそらく風速の計算なのだろう。
 だが分からぬのは、なぜスカートをはいた女の子が何種類も書かれているのかということなのだ。
 それもまた丁寧に一つ一つのスカート丈の長さや材質まで書き込んでいる。
 もしかして、こいつは変態か?
 そう、この変態少年は昨日の夜からぶっ通しでこのへんてこな団扇を作っていたのである。

 そのせいでまだ眠そうにあくびをする変態少年の目の下にはクマができていた。
 しかし、そんな疲れ切った表情に先ほどから容赦のない日の光が窓の外からバンバンと打ち付けられている。
 それはまるで、激しく打ち付けられる光の鞭によって目の下に住み着いた熊に閉じようとするまぶたをイヤイヤ持ち上げさせようとしているかのようでもあった。
 ――まぶしい! って、もう朝かよ……
 ヘンタイ少年は恨めしそうに窓をにらみつけた。

 窓の外には、これまた疲れ目に優しそうな緑の光景が広がっていた。
 というか、辺り一面、緑色をした森しかありゃしない。
 それ以外には、な~んにもないのだ!
 そう、ここは融合国の街はずれ、人っ子一人訪れない森の中!
 そして、なんと! 門と門が異世界と異世界をつなぐ聖人世界なのである!
 えっ! いきなりすぎ?
 まぁいいじゃん!

 ってことで、ログハウス、いや、馬小屋と言ったほうがいいぐらいのボロボロの部屋の中で、変態少年はミシミシと今にも壊れそうな音を立てる椅子からだるそうに立ち上がった。
 この変態少年、名を天塚あまつかタカト。
 根っからの道具作りが大好きな技術系オタクである。
 まぁ、俗にいうモテないやつというやつだ。

 その貧弱な体にまとう小汚い白地のTシャツには、この国のトップアイドルのアイナちゃんがプリントされていた。
 よほどそのTシャツが好きなのでだろうか? 何度も着まわしたことによりアイナちゃんのすべすべなお肌は、ところどころ剥がれ落ち、ついにはババアのようなしわくちゃなお肌になっている。
 コイツ! こんなことで真のアイドル道が極められると思っているのだったら片腹痛いワっ!
 その油まみれの顔と手をきれいに洗って出直して来やがれ!

 立ち上がったタカトは一回伸びをすると背後に置かれた古いベッドへと向きを変えた。
 小さきシングルベッドの上では13歳ぐらいの女の子が無防備な寝姿で寝息を立てている。
 この少女、名はビン子。姓はない。ただのビン子である。
 お察しの通り、彼らは兄妹ではないのだ。
 ごく普通のふたりは、ごく普通に肥をし、ごく普通以下の貧困を謳歌していました。でも……ただひとつ違っていたのは、ビン子様は神様だったのです!

 何だって! 神様だって!
 この少女はそんなに偉いのか!

 そんなことはナッシング!
 だって、この神様、記憶を失って何の力もないのである。
 だから、タカトとビン子の生活はとってもとても超貧乏。
 それは赤貧せきひんと言っていいほどの、キング・オブ・貧乏。
 もしかしたら、ビン子ちゃんは、ただの貧乏神なのかもしれません……

 ベッドで横たわるビン子は睡魔に負け、おそらく途中で力尽きたのだろう。
 長く伸びた黒髪が、髪ひもに結ばれることもなく無造作に白いベッドの上に広がっていた。
 しかし、その大きく広がる黒髪によって包まれた彼女の白肌は、色の対比によっていっそうその肌の白さを際立たせていた。
 さらには、窓から差し込む穏やかな朝日が、ワイシャツからこぼれる彼女のつややかな太ももを輝かせているではないか。

 そんな窓の脇には、昨晩、ビン子が読んでいたと思われる恋愛ものの小説が一つ。
 そしてその本の上では使われることがなかったブラシと髪ひもが、外でたわむれる鳥たちの様子を眺めるかのように風に吹かれながら楽しそうに肩を並べて揺れていた。
 風が吹き込むたびにビン子の長いまつげがピクピクと動き、差し込む朝日を散らしている。
 その様子は控えめにいっても美しい……
 まさに女神様そのものだ……
 だが、そんな可憐な彼女の唇からは一筋のよだれがたれていた。
 えっ? よだれ……?
 って、これ……ホントに女神様?
 でも、その嬉しそうに微笑んでいる寝顔からすると、きっと夢の中でおいしそうなものを食べているに違いなかった。

 タカトはビン子に声をかけた。
「起きろ。ビン子。朝だぞ!」
「……ムニュムニュ……それは私のエビフリャイ……」

 いまだ起きる様子を見せないビン子を見てタカトは苛立った。
 ――寝言か! くそっ!

 だがしかし、次の瞬間、タカトの口元が意地悪そうに弛んだのだ。
 そして、油で汚れた腕がそーっとビン子の顔に伸びていくと、黒ずんだ指先が彼女の鼻と口をバランスゲームのパーツのようにそっとつまんだのである。

 うぐぐ
 息ができないビン子の顔は、みるみると赤く膨らんでいく。

 その様子を見るタカトは必死で笑いをこらえていた。
 だが、よほどおもしろかったのか、膨らむほっぺから時おりプププという小さな笑い声が漏れていた。

 一方、ビン子のほっぺも風船のようにパンパンに膨らんでいた。
 いまや眠気でとじた目を膨らんだほっぺの肉が横一文字に押しつぶしている。
 もう、先ほどまで美しいと思っていた女神様のご尊顔が、横綱のようにまん丸く膨らんでいるではないか。

 フンガ―! 
 次の瞬間、ビン子の張り手が、タカトの下アゴをクリーンヒット!

「エビフライ! とったどぉぉぉぉ!」

 高らかなビン子の勝利の雄たけびと共に、天へと突き上げられる横綱の掌底!

「我が生涯に一片の食い残し無し!」

 っご!
 その手の先をタカトの下アゴが白い唾液を引きながら飛んでいた。
 それに付き従うかのようにタカトの貧弱な体が宙を舞う。

「……1・2・3! カン! カン! カン! 試合終了! 試合終了!」
 ビン子の枕元にあった目覚ましがけたたましく鳴り響いた。

 誇らしげに腕をあげるビン子が、その手をそのままに伸びをした。
「もう、死んじゃうじゃない!」
 そんなビン子の金色の目は、涙でいっぱいになっていた。

 いまだ停止ボタンを押されぬ目覚まし時計が、ガタガタと騒いでいる。
「ガッチュさん! いい勝負でしたね! タカト選手全くいいところなしですね!」

 ――とっつぁん……俺は負けたのか……
 タカトはふらつく膝に力を込めた。

「って! やかましいわ!」
 立ち上がったタカトは、目覚まし時計を力いっぱいに投げつけた。

「そうですね。ビン子選手の圧倒的な美しさの勝利で……」
 ガっツン!
 壁にぶつかった目覚まし時計の音声は、解説の途中でテレビがプツンと消えるかの如くピタリと止まった。

 しかし、一体、誰が目覚まし時計をこんな音声に設定したというのか。
 ベッドの上でビン子がにやりと笑っている。

「お前か! ビン子! 俺の大好きなアイナちゃんの『タカト君! 大好き! 大好きよぉぉぉぉぉ!』の音声はどうしたんだ!」
「えっ? あんなのキモイから消しちゃったわよ」

 ――何ですとぉぉぉぉ!

 その瞬間、タカトの空手チョップがビン子の頭に入った。
「いたぁぁぁぃ!」
「ボケかぁ! あの音声を作るためにどれだけ徹夜をしたと思ってるんだ!」
「いいじゃない。あんなオッパイだけの変態アイドルの合成音」
「馬鹿か! アイナちゃんは歌もダンスもいけてるんだぞ!」
「分かったわよ。私が代わりに声を入れてあげるわよ。『タカト! 大好き! 本当に大好きよぉぉぉぉ!』って!」

 タカトが白い目でビン子を見つめている。
「お前……アホだろ……」

 ――しまった……私としたことが、ついついいらぬことを口走ってしまった。
 ビン子は顔を真っ赤にしてうつむいた。
 うぅぅー

 そんなビン子が少々涙目になりながらベッドであぐらをかいてふくれている。
 窓から吹き込む爽やかな風が、足を押さえる手の間を通りシャツの前立まえたてを優しく膨らませていった。
 ビン子は、とっさに両腕で胸を隠し身をよじる。
 そして、上目遣いにタカトをにらみつけたのだ。

「もしかして、私を襲おうとした?」
「誰がお前みたいなやつに興味があるかよ」

 さげすむような目で見るタカトの両の手は何かを包み込むように上を向き、タコの足の如くいやらしく動いていた。
 確実にエロい想像していると思われるその目元はだらしなく緩み、うすら笑いさえ浮かべている。
 そんなタカトの口からは、ビン子同様に一筋のよだれが垂れていた。

「俺はこう、もっとふくよかで、あのお姉さんみたいに……」

 ――そう、あのお姉さんだ……

 その瞬間、あれほどだらしなく歪んでいた眼がスッとシリアスになった。
 左手は、伴にエロい妄想をしていた右手に別れを告げたかと思うと、そっと自分の左のほほに添えられる。
 それはまるで何か昔の事を思い出しているかのようである。
 その証拠にタカトのまぶたの裏には、かつてみたお姉さんの顔がおぼろげに浮かんでいたのだ。

 かすかな記憶に残るお姉さんは、タカトを覗き込みながら泣いていた。
 その金色に輝く瞳から涙がとめどもなくあふれだしていたのだ。
 こぼれ落ちる涙。
 涙と共にその長い金色の髪が、5歳のタカトの幼顔おさながおへとたれ落ちていた。

 金色の目をした女は泣き叫ぶ。
「血が止まらない。体もどんどん冷えていく。どうしたらいいの……どうしたら……」

 女の膝に乗せられた幼きタカトの瞳孔が散っていく。
 そんな薄れゆくタカトの視界には、母が最期に笑った崖先がはるか遠くにかすんで見えていた。

 それほどの高さから落とされた幼きタカトは、今、全身血まみれの状態だったのだ。

「逃げろ!」
 タカトの父天塚正行あまつかまさゆきの苛立つ声が廊下の闇を切り裂いた。
 庭をうががう障子の白肌しろはだ青白あおじろ月光げっこうを静かに揺らす。

 バン!
 その須臾しゅゆの後、白き障子が開け放たれた。
 力任せに引かれた木の枠は、壁とぶつかり跳ね返り敷居のさんからこぼれ落つ。

 廊下よりもさらに暗いそんな部屋の中から両脇に子どもを抱えた女がとび出してきたではないか。
 その両脇に抱えられている子供は5歳のタカトと姉のカエデ。
 どうやら先ほどまで眠っていた様子で、二人の子らは眠たそうにまなこをこすっていた。

 一方、飛び出した女のまなこには恐怖の色が広がっていた。
 女の名はナヅナ。
 タカトとカエデの母親である。
 月明かりに照らし出されたナヅナの顔は蒼白そうはくにひきつり小刻みに震えていた。
 だが、その大きく広がる瞳孔は、先ほどから廊下の奥で時折ときおり光る金属音をしっかりとにらみつけている。

 先ほどから玄関へと続く廊下の奥では、二つの足音が刀を激しく打ち合い移動しているのがよく分かった。
 おそらく一つは、正行のものだろう。
 さすれば、もう一つは招かれざる客のものなのか。
 その攻防がまさに一進一退であるかのように熾烈な足音はうねぐるう。

 我に返ったナヅナは庭先の明かりの元へと素足のまま飛び降りた。
 しかし、踏み石をふみ外した体は二人の子らを抱えたまま大きく前へと傾むく。
 倒れゆく体で潰さぬようにと、ナヅナはカエデをとっさに自分の影の下から押し出すのがやっと。
 残ったタカトを抱きしめた体は、そのまま白き玉砂利の海へと突っ込んでいった。
 擦れる体。
 まるで土砂が崩れるような音がとどろいた。

 うぐぐぅ

 ナヅナの体を激しい痛みが突きぬける。
 いまや胸元まであらわになっている白き肩は真っ赤に染まっていた。
 だが、それでも震える膝に力を込める。
 おびえ立ち尽くしていたカエデの手を右手でしっかりとつかみとると、一歩、また一歩と踏み出しはじめたのだった。

 だがしかし、そのあゆみは数步で止まてしまった。

 ――廊下の奥にいたはずじゃ……

 絶望にうちひしがれるナヅナの目。
 ナヅナが見上げる先には、雲間から漏れる美しい月明かりによって照らし出された一人の魔人の姿があった。

 そんな獅子の顔をした魔人の左腕は、二の腕から先が欠損し、まるで獣にでも食われたかのようである。
 大きな筋肉から伸びる右腕は、唯一の得物えものである鋭い爪を光らせていた。
 
 魔人たちは、こことは異なる魔の国からやってくる。
 人を食べるためにやってくる。
 そう、魔人にとって目の前のナヅナは、ただの肉でしかなかった。

 その飢えた緑の視線がナヅナを凍りつかせ絶望の淵へといざなった。
 だが、その視線は徐々にナヅナから胸に抱くタカトへ落ちていったのだ。
 それを本能的に感じたタカトの目は、先ほどまであんなに泣きじゃくっていたにもかかわらず、今や恐怖によってからめとられ、ただただ静かに震えるのみであった。

「やっぱり、嘘だったのね」
 ナヅナはつぶやいた。
 それはまるで自分が知る未来と異なっているかのような無気力な声。
 己が命を諦めたナヅナの体は静かにその場に崩れ落ちた。
 だがしかし、横に立つカエデは、その魔人の緑の双眸に恐怖しながらも強く見据え続けていた。

 目の前に迫りくる恐怖にタカト自身、自分の鼓動が否応いやおうもなく早まっていくのが分かった。
 おびえる口角から白い吐息が小刻みに漏れ落ちていく。
 そんな吐き出される白い息を魔人の手がゆっくりとかきちらしてくるのだ。
 
 今まさに、魔人の手がタカトの顔を掴みとろうとしたその刹那!
 鋭い剣撃が地をはうような残影を残し、その手を上空へと跳ね飛ばす。

「あなた。ご無事で!」
 それを見るナヅナの目からは自然と涙があふれ出してくる。

 一方、跳ね飛ばされた腕を押さえる魔人の双眸は憤怒の色で染まっていた。
 大きく裂き開く口が不気味な赤を覗かせる。
「この死にぞこないがぁぁぁぁぁぁぁ!」
 発せられた大きな怒号は周囲の全てを震撼させるには十分だった。

「早く逃げろ!」
 正行はナヅナたちを背に隠し魔人へと強く睨みを利かす。
 それは魔人の動きを制するかのように一分の隙も無くその緑の目へと注がれていた。

 正行の体は魔人のそれと比べると少々見劣りした。
 ただ、見劣りはするとはいえ、その胸板は厚くてたくましい。
 しかし、そんな胸板の下のわき腹からは血がとめどもなく滴り落ちている。
 おそらく、先ほどの戦いで切り裂かれたのだろう。
 だが、正行はその傷を構うこともなく剣を正面に構え続ける。
 そんな覚悟を決めた背中からは一切の恐怖を感じさせなかった。

 ナヅナは正行の声に小さくうなずくと再びカエデの手をとった。
「ご武運を……」
 やっとのことで声を絞り出す。
 しかし、これが夫との今生の別れになるかもしれないのだ。
 ならばなおのこと運命を共にしたかったに違いない。
 しかし、それがかなわぬ希望であることはナヅナには分かっていた。
 こみあげる無念と悔しさに強く唇をかみしめる。
 そんなナヅナは庭先にある森に目をやると、まるで未練を振り払うかのごとく体を翻したのである。

「逃がすか!」
 魔人は目の前の正行から視線をそらした。
 まるでその様子は最後の希望をとりこぼすまいという焦りにも見えた。
 力いっぱいに踏み込まれた魔人の足が走り去るナヅナを追いかけようと深く地面をえぐり取る。
 その力強さがナヅナの胸に抱かれたタカトをどうしても必要なのだと強く物語っているようでもあった。

 しかし、そんな魔人の爪を正行の剣の腹が受け止めたのだ。
 押し込まれる魔人の力をひたすら耐える。
 だが、これほどまでに体格が異なる力比べは無謀でしかない。
 その証拠に剣を支える右ひじの肉が麻ひものごとく音を立てて切れていくのが分かった。
 その激痛はいかに覚悟を決めた正行であったとしても、その顔を無情にも歪ませていた。

 だが、あと一時いっとき……あと一瞬!

 そんな正行の気迫が剣を強く押し込むのだ。
 足の指は地面に深く食い込み裂けていく。
 剣もまた激しい悲鳴を上げ続けていた。
 だがそれでも正行の体は徐々に後ろへ押されていくのである。

 しかし、正行がさらに力をこめた瞬間のことだった。
 ついに限界を迎えた剣は無惨にもくだけ散ったのだ。

 右ひじは支えを失い魔人の腕へと倒れゆく。
 何が起こったか分からぬ視線は徐々に徐々にと落ちていく。
 そして、自らの胸に突き刺さった魔人の腕をとらえた瞬間、正行は己が運命を理解した。

 口から吐き出される大量の血。
 背中を貫く白い爪。
 その爪先からは深紅のしずくがポトリポトリと滴り落ちる。

 まるで邪魔者を見下すかのような緑の視線は、赤きしずくを垂らす右腕を無造作に引き戻した。

 その須臾しゅゆの後、正行の体に大きく空いた穴から噴き出した大量の血。

 タカトは見てしまったのだ、その光景を。
 そう、ナヅナの足が、ならぬと分かっていても振り返ってしまっていたのである。

 いまだ宙に舞う剣の破片が月明かりを激しく散らしていた。
 そんな月明かりが吹き上げる正行の血によって、ゆっくりと赤黒く染め上げられていくようであった。

「アナタァァァァッァ!」
 ナヅナの悲鳴が、その静けさを切り裂いた。

 正行は無意識に足をだし自らの体を支えきる。
 しかしもうその体には愛する妻の顔すらかえりみる力は残っていない。
 だが、正行は消えゆく意識を振り絞る。
「分かっていたことだ! 自分がなすべきことをしろ!」

 その強い一言に、ナヅナは自分を取り戻した。

 だが、目の前で夫の命が消えてゆく。
 かけつけたい。
 抱きしめたい。
 一目ひとめ最後に叫びたい。
 ただただ……あなたと叫びたい。

 そんな感情がナヅナをぐちゃぐちゃに包み込む。
 しかし、沸き起こる嗚咽と共にその感情を無理やり胸の奥へと飲み込んだ。

「お願い! カエデ走って!」
 呆然と立ち尽くしているカエデの手を力任せに引っ張った。
 もう、そこには先ほど見せた母親の愛情の片鱗など全くない。
 ただ、ただ、何かをしなければならないという使命感があるのみだったのだ。

 魔人は正行の肩を掴みとると無造作にたぐり寄せた。
 獅子の顔に降りそそぐ正行の血が、その緑の眼光をさらに怪しく引き立てる。

「我が愛しきソフィアの贄となれ!」

 大きな口が正行の頭に食らいつくと、ミシミシと嫌な音を立てその頭蓋骨をかみ砕いたのである。

 半狂乱のナヅナはカエデの手を無理やり引っ張り森の中をひた走った。

「あなた……あなた……」

 夫がどうなったのか分からない。いや、分かりたくもなかった。
 叫び声とも泣き声とも解らぬ声が涙とともにナヅナの背後へと流れていく。

 夜明け前、いっそう暗くなった深い森が容赦なく三人の体をを痛めつけた。
 まるで、森の奥へと引き戻そうとするかのように伸びてくる枝々が、ナヅナ達の白い浴衣に咲きぐるう真紅の牡丹を描いていくのだ。
 
 おそらくナヅナは、これが夢であってくれと願っていたことだろう。
 だが、この体中の刻まれる痛みがまぎれもない現実であることを痛感させた。
 枝が深く刺さるナヅナの素足は一歩踏み出すたびに激痛を突き上げる。
 そんな激痛は次第にナヅナの精神を削るのだ。

 前へ。一歩でも前へ。
 今、ナヅナの心を支えているのはただそれだけだった。

 そんな息を切らすナヅナの行く手に小さな光が見えた。
 ――あそこまで行けば……
 なんの根拠もないその目標に最後の気力を振り絞る。
 
 一歩踏み出すたびにその光は徐々に大きくなってくる。

 無我夢中に走るナヅナの体はその光の中に駆け込んだ。
 瞬間、あれほど執拗にまとわりついていた森たちが、まぶしい光とともに途切れた。

 立ち尽くすナヅナ。
 そんな彼女の目の前には一望できる融合国の光景が広がっていた。
 そうナヅナは断崖絶壁の先に立っていたのだ。
 もう、彼女の前に道はなく逃げる先はなかった。

 だが、崖の上からは遥か遠くに流れる川面が顔を出し始めた朝日に照らされてキラキラと輝いているのがよく見えた。
 眼下に広がる融合国の街並みが、まるで宝石箱のふたを開けていくかのようにきらびやかにその姿を輝かせていくのである。

 それを見るナヅナの目から一筋の涙がこぼれ落ちた。
 カエデを引いていた手を放し涙をぬぐう。
 ――これで終わり……
 それは、逃げ道を失った絶望なのだろうか……

 いや違う、今のナヅナの目は先ほどまでの半狂乱の目ではない。
 いつもの燐とした美しい母の瞳だったのだ。

 ナヅナは抱きかかえていたタカトをしっかりと両手で強く抱きしめなおすと、優しく微笑んだ。
 それはまるでココが終着駅であるかのように。
「大丈夫。タカトは必ず助かるからね。母さんはタカトの笑顔が大好きよ。これからもみんなをもっともっと笑顔にしてね。本当に本当に大好きだったから……」

 ナヅナの声は小さく震えてはいたが、いつもの優しさが戻っていた。
 ――いつものかあさんだ……
 タカトはナヅナの胸にしがみつくと強く強く頭をこすりつけた。

 しかし、ナヅナはおもむろにタカトを目の前へとつきだした。
 そして、もう一度、精一杯に笑顔を作るのだ。

 そんな微笑むナズナの目から一筋の涙。
「さようなら……タカト……」
 その瞬間、タカトを抱えていた手が離れた。

 崖下に落ちていくタカトの体。

 とっさにタカトはその小さな右手を母へと伸ばす。

 しかし、母には届かない。

 深くなりゆく暁の空。

 空を切る右手の先に映ったものは、魔人の腕で首を吊し上げられた母ナヅナの姿だった。

 落ちていくタカトの体は、幸運にも崖の途中に生えていた木々たちによって受け止められた。
 しかし、幼子といえどもその落下の勢いはかなり大きい。
 次々と支える枝をへし折って、地面で生い茂る深い緑のクッションへと突っ込んだ。

 すでに母がいた崖先はかすんで見えない。
 それほどの高さ……

 おそらくだれも幼きタカトが生きているとは思うまい。
 あの獅子の顔をした魔人でさえも。

 だがしかし、タカトの母親は信じていた。
 必ずタカトは生き残ると。

 そんなタカトの落ちた茂みに一人の女が急ぎ駆けよってきたのだ。
 それは金色の目と金色の髪を持つ女である。
 そう、タカトのまぶたに浮かんだお姉さん、その人であった。

 金色の目は神の証。
 すなわち、この女は神である。
 だがなぜ、女神が運よくこの近くにいたのかは今はひとまず置いておこう。

 女神は茂みを懸命に掻きわける。
 必死の形相で枝葉を次々と掻きちぎる。
 ついに茂みの奥に沈んだタカトを見つけ出すと、その腕をつかみとり緑の深海から引きずりあげた。
 いびつな方向に曲がるタカトの腕。
 一見して、手や足などの骨が折れていることはすぐに分かった。

 ゲボォ
 タカトの口から胃にたまった血が噴き出された。
 途中の枝で切り裂いたのであろうか、脇腹は大きく口を開け中から腸がはみだしている。

 女神はタカトを膝に抱き、腸がはみ出る脇腹を懸命に押さえ続けた。
 しかし、とどまるところを知らない血の勢いは押さえる女神の手の隙間からあふれ出していく。
 いつしか女神が身にまとっていた白き衣装は真っ赤に染めあげられていた。

 徐々に冷え行く小さき体。
 タカトの首すじを支える右腕からは女神自身の体温が奪われていく。

 刻一刻と迫りくる死。
 どうしようもない無力感が女神の心を覆い尽くしていった。
 その無力感は徐々に肥大する。
 ついには今まで感じたことがない恐怖へと成長していた。

 まるでその恐怖は、死神がすぐ後ろに迫っているかのような冷たい感覚。
 女神の肩越しから伸びる長き柄を持つ死神の鎌が膝の上のタカトに向かってゆっくりと伸びてくるような感じがした。
 冷気漂う蒼白の刃がタカトの命を刈り取ろうとするかのようにおさなき首筋に当てられる。
 ――ダメ!
 そんな死の誘いを拒むかのように女神は強くタカトを抱きしめた。

 震える女神は、タカトの目が力なく開いていることに気がついた。
 女神は顔を近づけ必死に励ます。

「この身がどうなろうとも……必ずあなたを助けます……もう二度と……あなたを失わない……ア」

 そんな意識が消えゆくタカトの左頬を、女神のふくよかな右胸が優しく温めてくれていた。


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